存在論日記2006年/ 3月

存在論日記:2006年3月

目次

稲荷信仰

先日、伏見稲荷大社を探検してきた。

稲荷信仰というのは神道の倉稲魂神(うかのみたまのかみ)と 仏教のダキニ天とが習合したものらしいが、 「お塚」と呼ばれる石の祠が林立する中を彷徨していると、 稲荷信仰の背後に何か得体の知れない無意識の蠢動があるように 感じられる。

それぞれの「お塚」に祀られているのがどのような神なのかは、 よくわからない。 あるいは、「お塚」を建てる人間が、 神を自由に新設することができるのかもしれない。 もしもそうだとすれば、 これはなかなか面白い信仰形態と言える。

聖トマス学院

先日、賀茂御祖神社や吉田神社などを巡歴してきたのだが、 そのついでに、 「どんなところなのか」と以前から関心を抱いていた聖トマス学院に 潜入してきた。

最も中心となる建物は洋風で、 ステンドグラスがあったりするなど、 キリスト教の教会のように見える。 しかし、敷地内に石灯篭が点在しているなどの点から推察すると、 もともとは仏教の寺院があった場所らしい。 門や土壁も、 おそらくかつて寺だった当時のものをそのまま使っているようだ。 丑寅の隅には大木があり、その根元に木製の祠と石の鳥居がある。 祠は朽ちるにまかされているが、故意に破壊された形跡はない。

聖トマス学院は、 仏教や神道などの異教の遺産に囲まれて鎮座していた。 それは、 まさに聖トマスにゆかりの研究機関としてふさわしい姿のように 思われる。

多神教と一神教

同志社大学今出川キャンパス神学館礼拝堂で聴いた、 「日本宗教から一神教への提言」という 山折哲雄さんの講演についてのメモ。

山折さんの考え方の基調には、 「多神教は価値観の多様性を認める宗教であり、 一神教は排他的な宗教である」という、 日本人にありがちと思われるステレオタイプな宗教観があるようだ。 したがって、そこから導き出された「提言」も、 それほど新味のあるものとは思えなかった。

しかし、 「民衆レベルの信仰は多神教的である」ということを例証するために 山折さんが次々と繰り出す事例(たとえば、 生月島の隠れキリシタンが伝承しているオラショ、 モンセラート修道院の黒いマリア像、 ド・ゴール将軍の墓に奉納される絵馬のようなものなど)は、 なかなか興味深いと思われた。

講演後のパネル・ディスカッションで手島勲矢さんが、 「「一神教」(monotheism)と「多神教」(polytheism)という言葉を 多用するのは日本人ぐらいのものだ」と述べていた。 それはなぜなのだろうか。 日本人というのは、 「一神教」というものに対して 警戒心を抱く民族だからなのだろうか。

そもそも、神が「多」であるとか「一」であるというのは、 いかなる意味なのだろうか。

八百万の神々は「神性」という属性を共有しているはずだが、 その「神性」を普遍者と考えた場合、 それは限りなく「唯一神」に近いものと 言えるのではないだろうか。

また、全能なる神は、 異なる場所に同時に自分を顕現させることも 可能なのではないだろうか。 さらに、 自分と同等の能力を持つ存在者を創造することも 可能なのではないだろうか。

ニュッサのグレゴリオス

先日、 白飴姫さんが「教父たちとその周辺」というコミュニティーを 作ってくださったので、 喜び勇んで参加した。 そして、自己紹介のトピックに次のような文章を書き込んだ。

キリスト教的な神の存在を自己の哲学に組み込んでおくと、 それが起爆剤となって、 ものすごく大胆な世界像を産み出すことができるのかもしれません。 そのような意味で、教父哲学には、 ヲタク的に面白い鉱脈がまだまだ眠っているように思われます。

この文章を書いているときに私が念頭に置いていたのは、 ニュッサのグレゴリオス[1](330頃-395頃)という ギリシア教父である。

グレゴリオスは、ひとりひとりの人間による個人的な選択は、 世界というものがより良いものになるかより悪いものになるか ということを決定する力を持つ、 と述べている。 すなわち、人間は、 世界の創造に関与することのできる被造物なのである。

人間(あるいはさらに一般的に言って知的被造物)によって 世界の創造が補完されるというのは、 きわめて面白い思想だと言っていいだろう。

最近になって気付いたことだが、 スタニスワフ・レムが架空の講演[2]の中で紹介している、 アリスティデス・アヘロプーロスという架空の自然哲学者によって 書かれた『新しい宇宙創造説』という書物で 提示されている世界像は、 知的被造物が世界の創造に関与しているという基本的な思想が、 ニュッサのグレゴリオスによって 提示された世界像と共通している。

宇宙というのは、 物理法則を自由に変更することができる段階に到達した 諸文明によって物理法則をめぐるゲームが繰り広げられている 場所である、 というのがアヘロプーロスの世界像である。

知的被造物による世界の創造という思想は、 神による世界の創造と同じ程度か、あるいはそれ以上に、 大胆な世界像を産み出す起爆剤として面白いと思う。

[1] 今道友信、『西洋哲学史』、講談社学術文庫、 講談社、1987、pp. 133-138。
[2] スタニスワフ・レム、「新しい宇宙創造説」、 沼野充義訳、『完全な真空』、国書刊行会、1989、 pp. 257-299。

教科書の快楽

テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た 引用の織物である。[1]
――ロラン・バルト「作者の死」より

河川敷に不法投棄されているゴミの山の中から 高校の古典の教科書[2]を発掘した[3]。 その表紙を開いてみた私は、讃嘆の念を禁じ得なかった。

巻頭に掲載されているのは、 『今昔物語集』巻二十四の第十六話、 安倍晴明が蛙をぺしゃんこにする話である[4]。 感心したのは、その本文の下に、 あたかも対訳であるかのように夢枕獏さんの『陰陽師』からの抜粋が 掲載されていたことである。 さらに追い討ちをかけるように、 岡野玲子さんの『陰陽師』からも 同じエピソードの一場面が引用されている[5]。

この教科書を使って古典を勉強する高校生は、まず最初に、 安倍晴明という特異なキャラクターが登場する 印象的なエピソードに、 平安時代末期の説話、現代の小説、そしてマンガ、 という三つの角度から接することになるわけである。 この教科書の編纂者たちはおそらく、 どうすれば高校生が古典文学に興味を持ってくれるだろうかと 真剣に考えたに違いない。

さらに、この教科書は、 日本の古典文学および漢文のアンソロジーとしても、 なかなか洗練された選択眼によって編纂されている。

『源氏物語』からは、 「いづれの御時にか」という冒頭の部分のほかに、 光源氏が小柴垣の内側にいる幼い姫君(のちの紫の上)を 目撃する場面[6]が採用されている。 もしも私が古典の教科書を編纂することになったとしても、 やはり『源氏物語』からは同じ場面を採用するに違いない。

近松門左衛門の浄瑠璃からは、 「曾根崎心中」の道行の場面が採用されている。 この選択も、きわめて妥当である。 ただし、近松に関しては、 世話物だけではなく時代物も掲載してほしいところであるが。

註(あるいは余談)
[1] ロラン・バルト、「作者の死」、 『物語の構造分析』、花輪光訳、みすず書房、1979、 pp. 85-86。
[2] 『新編古典』、大修館書店、2005。
[3] その教科書を持って自宅へ向かいながら、 犬童一心監督の「ジョゼと虎と魚たち」を思い出した。 ジョゼは、学校に通っていないけれど、 近所の男の子がゴミとして出した教科書で勉強している、 という設定だったからである。 ちなみに、私は、 香苗(上野樹里さんが好演)と恒夫が街で再会して 喫茶店で会話を交す場面が大好きである。 人間というのが計り知ることのできない存在であることを 思い出させてくれるからだろうか。
[4] 前掲『新編古典』、pp. 10-15。 余談であるが、私が書いている 「琴繭姫擬態録」 という小説の舞台となっている世界では、 電脳空間を自律的に動き回って情報の収集などをする プログラムのことを「式神」と呼んでいる(我々の現実世界では 「エージェント」と呼ぶのが一般的であるが)。 この「式神」というネーミングは、 陰陽師が操る「識神」に由来するものである。
[5] 前掲『新編古典』のp. 10に掲載されている 安倍晴明の肖像(?)も、 岡野さんの『陰陽師』からの引用である。
[6] この場面で初めて登場する、 のちに紫の上となる幼い姫君が最初に言う台詞は、 「雀の子を犬君が逃がしつる」である。 なんと鮮烈な印象を残す台詞だろう。
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Last modified: Sunday, 27 May 2007
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