存在論日記2006年/ 4月

存在論日記:2006年4月

目次

最上稲荷

日蓮宗系の稲荷として知られる最上稲荷[1]を訪問した。

最上稲荷に稲荷として祀られている神は、 「倉稲魂神」でも「ダキニ天」でもなく、 「最上位経王大菩薩」と呼ばれている(通称は「最上さま」)。 奉納されている絵馬を見ると、そこに描かれているのは、右手に鎌、 左手に稲穂を持った女神である。

伏見稲荷大社が稲荷山という霊場に鎮座しているのと同様に、 最上稲荷は龍王山という霊場に鎮座している。 山麓にある本殿から山頂にある奥之院にかけて 無数の石の祠が建てられているという点も、 伏見稲荷大社と共通している。 ただし、伏見稲荷大社では石の祠を「お塚」と呼ぶのに対して、 最上稲荷ではそれを「宝塔」と呼ぶ。

お塚の場合、石の表側に刻まれているのは神の名前だけだが、 宝塔の場合は、 神の名前の上に「南無妙法蓮華経」という題目が 必ず刻まれている。

神の名前ではなく神の図像が刻まれた宝塔もある。 龍王山の山頂にある宝塔の一つには、 三面大黒天[2]の図像が題目の下に彫り込まれている。

仏教系の稲荷としては、 最上稲荷のほかに豊川稲荷もよく知られている。 しかし、最上稲荷と豊川稲荷とは、同じ仏教系ではあっても、 信仰形態としてはかなり異なるものと言ってよいだろう。 豊川稲荷では千手観音を本尊とする寺の鎮守として ダキニ天が祀られているのに対して、 最上稲荷では、最上さまが祭神であり本尊なのである。

[1] 最上稲荷(さいじょういなり)は 岡山県岡山市にある仏教の寺院で、 正式名称は「最上稲荷教総本山妙教寺」である。
[2] 三面大黒天については、 三浦あかね『三面大黒天信仰』(雄山閣、2006)を 参照されたい。

思考としての世界

世界は思考である。 そのように言われたとき、あなたは面喰うだろうか。 それとも「何を今更」と思うだろうか。

世界は思考であるという主張は、けっして珍しいものではない。 たとえば、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』3.01で、 「真なる思考の総体が、世界の絵である」[1]と語っている。

伝統的な世界観においては、 世界には物理的な空間と物質が存在しなければならない と考えられてきた。 しかし、 ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』[2]を嚆矢とする サイバーパンクが一世を風靡した頃から徐々に我々は、 思考さえあれば、 物理的な空間や物質が存在していなくても世界は成立する という考え方に慣らされつつあるように思われる。

田畑暁生さんは、 「情報の反意語は何か?」[3]という論文の中で、 「情報一元論」という主張を紹介している。 それは基本的には、「世界はすべて情報である」という主張である。 これも、「世界は思考である」という主張の変種のひとつである。 田端さんによれば、高橋英之さんという人は、 『コンピュータの中の人類』(お茶の水書房、1990) という本の中で、 そのような情報一元論を主張しているそうである。

[1] ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論』、 山元一郎訳、中公クラシックスW7、中央公論新社、2001、 p. 61。
[2] ウィリアム・ギブスン、 『ニューロマンサー』、黒丸尚訳、ハヤカワ文庫SF672、早川書房、 1986。
[3] 田畑暁生、「情報の反意語は何か?」。 http://www2.kobe-u.ac.jp/~akehyon/antinom.html

死刑廃止論

小林和之さんの論考[1]に触発されて、 死刑という刑罰について考えてみた。

死刑という刑罰は廃止するほうがよいのではないだろうか。 少なくとも現時点では、私はそう思っている。 理由は次の三点。

第一は、 人間またはその集団が人間の命を絶つことを許されるのは、 それ以外に選択肢がない場合に限られるべきだ、という理由である。 殺す以外に選択肢がない場合というのは、 たとえば正当防衛が成立するような事態などである。 凶悪犯罪に対する刑罰としては、 死刑以外の選択肢を考えることができる以上、 死刑は許されないと私には思われる。

第二は、 死刑が凶悪犯罪を抑止する効果には限界があるという理由である。 死刑による抑止効果は、 大多数の人間に対しては有効に機能するであろうが、 自分の死に対して恐怖を感じていない人間には効果を及ぼさない。 むしろ逆に、 自殺志願者に対してその手段のひとつを提供しているとさえ 言うこともできるであろう。

第三は、死刑が、 もしも冤罪だった場合に それを執行することが取り返しのつかない過ちとなってしまう という欠陥を持つ刑罰である、 という理由である。

以上のような理由で、現時点での私は、 死刑は廃止するほうがよいのではないかと考えているわけだが、 死刑を廃止するためには、少なくともひとつ、 考えておかなければならない問題がある。 それは、凶悪犯罪を犯した人間に対して、 死刑の代わりにどのような刑罰を科せばよいか という問題である。

通常の無期懲役で十分に用が足りるとする見解もあるだろうが、 極悪非道な犯罪に対しては それ以外の犯罪よりもさらに強い抑止効果を持つ刑罰を科すべきだ と私は考えている。 たとえば、無期懲役の別バージョンとして、 通常の刑務作業ではなく徒労感を伴う役務に従事させるというのは どうだろうか。 すなわち、 ギリシア神話に登場するシーシュポス(Sisyphos)に科せられたような 刑罰[2]である。

犯罪の抑止効果を万人に及ぼす刑罰というものは存在しない。 シーシュポス的刑罰もその例外ではない。 この問題に対処するため、 凶悪犯罪に対する刑罰としては複数の選択肢を準備しておいて、 それらのうちのいずれを科すことも可能である、 という制度にしておくことが望ましいと思われる。

[1] 小林和之、『「おろかもの」の正義論』、 ちくま新書509、筑摩書房、2004、第8章。
[2] アポロドーロス、『ギリシア神話』、 高津春繁訳、岩波文庫、岩波書店、1953、p. 50。

大阪針金男

1980年ごろ、フィラデルフィアの道端で、 段ボール箱に詰め込まれた、 針金などで作られた大量のオブジェが発見された。 フィラデルフィア・ワイヤーマン(The Philadelphia Wireman)という 仮称で呼ばれることになったそれらのオブジェの作者は、 のちに彼を探すためのキャンペーンが実施されたにもかかわらず、 正体不明のまま現在に至っている[1]。

2006年4月16日(日)、私は、 淀川の河川敷に不法投棄されたゴミの山の中で、 針金で作られたひとつのオブジェを発見した。 私は、 そのオブジェの作者に大阪針金男(The Osaka Wireman)という仮称を 与えた。 私が発見した大阪針金男の作品は、 大きさが30×25×20cm(目測)で、 数字の8、 あるいは無限大の記号のようなものをモチーフとする抽象的な形状を 持っている。

大阪針金男は、 このオブジェを美術作品として制作したのだろうか。 それとも、何らかの呪術的な意図によるものなのだろうか。

[1] 服部正、 『アウトサイダー・アート――現代美術が忘れた「芸術」――』、 光文社新書、光文社、2003、pp. 179-181。

国家とは何か

人間を殺すということは倫理的に許されない行為である。 しかし、死刑と戦争においてはそれが許される。 その根拠は何なのだろうか。

死刑と戦争には大きな共通点がある。 それは、どちらも国家が関与する殺人であるという点である。

人間は、人間を構成要素とするさまざまな集団を作っている。 国家もまた人間の集団の一種である。 人間を殺してはならないという倫理は 個人のみならず人間の集団にも適用される。 しかし、国家だけはその例外である。 死刑や戦争は、その前提の上で是と認められる行為である。 では、 家族やサークルや企業や労働組合のような通常の人間の集団と 国家とのあいだには、どのような差異があるのだろうか。

私は先ほど「国家もまた人間の集団の一種である」と書いたが、 あなたはそれを読んで違和感を感じなかっただろうか。 私は書きながら強い違和感を感じた。 その違和感はおそらく、「国家」という言葉から、 人間の集団というイメージよりも 統治機構というイメージのほうが強く想起されることに 由来するのではないかと思われる。

国家の本質は統治機構であって、 国民というのは統治機構にとって無害である限りにおいて 存在を許されている人間たちのことである。 そして、統治機構は人間の倫理を超越した存在であり、 犯罪者を処刑したり、徴用した国民を戦地へ送り込んだり、 他国の領土を爆撃したりすることも許されている。 小林和之さんはこのような国家観を 「カルト的国家観」と呼んでいる[1]。

カルト的国家観は けっして全体主義国家の国民のみに固有のものではない。 民主主義国家においても、 国民の心の奥底にはカルト的国家観が潜んでいる。

人間には、 自分の意識の根底にあるものを払拭することはできない。 しかし、 それが間違いだということを意識の表層で認識することは 可能である。 もしも、民主主義国家において、 カルト的国家観は誤りだという認識を持つ国民が 多数派になったとすれば、 死刑と戦争を廃止することが可能となるだろうか。 あるいは、そのようなことは夢物語なのだろうか。

[1] 小林和之、『「おろかもの」の正義論』、 ちくま新書509、筑摩書房、2004、pp. 191-194。
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Last modified: Sunday, 27 May 2007
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