存在論日記2006年/ 5月

存在論日記:2006年5月

目次

死刑廃止論・弐

刑罰というものについて、 次のように考えることは妥当だろうか。

刑事裁判は、 犯罪によって社会が失った社会的な価値[1]を判定する 手続きであり、 刑事罰は、判定の結果として示された損失を、 被告人が所有している何らかの価値によって 補填するという意味を特つ行為である[2]。

犯罪によって失われた社会的な価値が軽微である場合は、 金銭などの価値によって損失を補填する財産刑が科され、 損失が重大である場合は 自由という価値を供出させることによってそれを補填する 自由刑が科される。 そして、社会が失った価値が、 自由刑によって補填することのできる限界を超えるほど 甚大である場合は、 その代償として生命という価値を支払わせる生命刑が科される。

私は、刑罰に対するこのような考え方は、 基本的には妥当なものだと思う。 しかし、ひとつだけ問題点を指摘しておきたい。 それは、 人間の生命の価値と社会的な価値とを交換することは許されるのか という問題である。 この問題に関して、私は、 人間の生命の価値をそれ以外の価値と交換することは 認めるべきではないという意見を支持したい。

仮に、 人間の生命の価値と社会的な価値との交換を認めたとしても、 それらの価値の交換レートは誰がどのようにして決めるのか という問題が残る。 もしも私がそれを決める立場にあるとするならば、 いかなる社会的な価値よりも 人間の生命の価値のほうが大きくなるようなレートを定めるだろう。 私が定めたレートにしたがうならば、国家は、 死刑囚に対して差額を支払う義務を負うことになるわけだが、 死亡した人間に対して差額を支払うことは不可能なので、 死刑は不可能だということになる。

[1] ここで「社会的な価値」と私が呼んでいるものは、 私自身にとっても曖昧な概念であるが、 法律によって保たれている秩序が持っている価値のことだ と考えてもらいたい。 少なくとも、 金銭的な価値や人間の生命の価値とは異質な価値である。
[2] あくまで社会が失った価値に対する補填であって、 犯罪の被害者が失った価値に対する補填ではない、 という点に注意していただきたい。

安永二年

JR大阪環状線桃谷駅のすぐ近くに、観音寺という寺がある。 この寺は豊川稲荷の別院なので、 その奥之院[1]にはダキニ天が祀られている。 私の勤務先も桃谷駅の近くにあるので、 観音寺は私にとってかなり身近な存在である。

観音寺の境内には石で造られた建造物が数多くあるので、 そのようなものが好きだという私のような人間にとっては きわめて魅力的な空間である。

観音寺にある石の建造物に彫られている建立年月は、 明治や大正のものが多いのであるが、最近、 奥之院の前にある石の鳥居に、 「安永二年癸巳六月穀旦」と彫られていることに気付いた。

安永二年(1773年)というのは、 鳥居としてはかなり古い部類に属すると言えるだろう[2]。 これほど古い鳥居が、通勤経路のすぐ近くにあって、 少し寄り道するだけで見に行くことができる、 というのはなかなか幸福なことだと思う[3]。

[1] 「奥之院」と呼ばれてはいるものの、 位置は本堂の横である。
[2] ちなみに、 1773年はアメリカが独立を宣言した年の3年前である。
[3] もう少し足を伸ばせば、 さらに古い鳥居を見ることもできる。 四天王寺には永仁二年(1294年)に建立された鳥居がある。

共存型一神教宣言

多神教は多様な価値観の共存を認める宗教であるのに対して 一神教は排他的な宗教であるという主張は、 かなりの説得力を持っているように思われる。

代表的な一神教である、ユダヤ教、キリスト教、 イスラームという、いわゆるセム的一神教が、 異なる価値観に対してかなり排他的であるというのは事実である。 歴史を振り返ってみれば、 セム的一神教の排他性を原因として 数多くの紛争が発生してきたということは、 紛れもない事実である。 過去の歴史の中だけではなく、21世紀を迎えた現在においてもなお、 セム的一神教の排他性は、数多くの紛争の原因となっている。

一神教を信仰したいけれども、 異なる価値観に対して寛容ではないセム的一神教は どうしても好きになれないという理由で、 その信仰に踏み切ることを躊躇している、 という人は意外に多いのではないだろうか。

ところで、排他的であるという性質は、 一神教であるという性質の必然的な帰結なのだろうか。 言い換えれば、排他的ではない一神教は存在し得ないのだろうか。 私は、排他的ではないという性質と一神教であるという性質とは、 けっして矛盾するものではないと考えている。

そこで私は、 「共存型一神教」と呼ばれる新しい一神教を構築してみようと思う。 共存型一神教は、セム的一神教を基礎として構築される、 多様な価値観の共存を教義の柱とする一神教である。 この新しい一神教は、 一神教を信仰したいけれども セム的一神教は嫌いだという人々に対して、 第4の選択肢を提供することになるだろう。

2006年5月22日、私は、 共存型一神教について話し合うことを目的とする コミュニティー[1]をmixiの中に設立した。 そしてそれと同時に、 「共存型一神教学会」という宗教団体を設立した。 共存型一神教学会は、共存型一神教の教義について検討すること、 そして その新しい一神教を布教することを目的とする宗教団体である。

[1] 共存型一神教 http://mixi.jp/view_community.pl?id=927313

ロングテール的幸福観

人間がどんなことに幸福を感じるかというのは、 人間ごとに千差万別である。

そんな当たり前なことをわざわざ書いてみたのは、人間は、 ともすればそのことを忘れて、 大多数の人間の幸福観が 自分にとっても真実だと思い込みがちだからである。

ほとんどすべての人間が経験していることなのに 自分はまだ経験していないことがあるとすると、人間というものは、 どうしてもそれを不幸なことだと感じてしまうようである。 たとえば、 ほとんどすべての日本人は カレーライスを食べたことがあるに違いないが、 もしも自分が、 日本人でありながら カレーライスというものを食べたことがないとすれば、 それはかなり不幸なことのように 感じられるのではないだろうか。

しかし、そのような不幸は幻想に過ぎない。 もしも誰かから、「カレーライスを食べたことがないなんて、 人生の損失ですよ」と言われたとしても、 気にする必要は何ひとつない。 むしろ逆に、自分自身の幸福観を探究しようとせず、 大多数の人間の幸福観をそのまま無批判に受け入れて 幸福を追い求めることのほうを、人生の損失と言うべきである。

人間の寿命は有限である。 幸福観を探究することに多くの時間を費すということは、 幸福を追い求めることに使うことのできる時間が それだけ短くなるということを意味する。 しかし、それでもかまわないと私は考えている。 人生とは、ロングテールの先端をめざす旅なのだから。

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Last modified: Sunday, 27 May 2007
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