存在論日記2006年/ 6月

存在論日記:2006年6月

目次

原理主義

「一神教としてのユダヤ教・キリスト教・イスラーム ――『原理主義』から見た相互認識――」 という講演に関するメモ。

日時は2006年6月4日(日)9:30〜12:00、 場所は同志社大学今出川キャンパス至誠館22番教室、 講師は手島勲矢さん、小原克博さん、中田考さん、 コメンテーターは芦名定道さん、司会は森孝一さん。

手島さんの講演は複雑な問題を扱っていて要約が難しいが、 サムソン・ラファエル・ヒルシュの立場を ユダヤ学における原理主義としてとらえ、 改革派の代表であるアブラハム・ガイガーを彼がどのように 批判したかという問題が中心となっていたように思われる。

小原さんの講演は、 「原理主義」(fundamentalism)という言葉の発祥地となった アメリカのプロテスタントの考え方を踏まえた上で、 その言葉が どのように転用されてきたかという過程を検証するもの。

中田さんの講演は、「イスラム原理主義」は蔑称であって、 しかも何を指しているのかが一定ではないので 有効性のある言葉ではない、 と前置きした上で、 イスラーム自身から見た原理主義はウスール学派、 すなわち法学者中心主義であるととらえ、 それと対立する万人祭司主義や霊感主義との相違点について 解説するもの。

講演そのものが専門性の高いものだったのに対して、 講演後の質疑応答は、ざっくばらんなものが多くて、 かなり楽しむことができた(ざっくばらんすぎて、 司会の森さんはやや困惑気味だったけれど)。

「聖書の中には原理があるのだから、 近代との対立で信仰の質が変化したということは ないんじゃないですか」という会場からの質問に対して、 手島さんは、「聖書は、 はたして『わかった』と言える書物なんでしょうか。 近代と対立しているのは、聖書じゃなくて、 聖書を解釈している人々なんです。 聖書自体は意味不明です」と答えていた。 この回答は聴講者たちを爆笑させていたけれども、 これから共存型一神教の教典を書かなければならない立場にある 私としては、 いささか複雑な心境である。 私が書いた教典も、 私が死んだ後は解釈が四分五裂することになるのだろうか。

この講演のタイトルは、 中心となるテーマを正確に反映しているとは言えない。 修正するとすれば、「自称としての「原理主義」」であろうか。 自称としての「原理主義」とは何かという点に関して、 三人の講師の考え方は奇妙なほど一致している。 それは、 「聖典の解釈権は自分たちにある」という 相対的な立場を表明する言葉だということである。

小原さんは、 「プロテスタントはカトリックに対する原理主義である」 という考え方を紹介した文脈で、 万人祭司主義を原理主義として扱っていたのに対して、 中田さんは、ウスール学派を原理主義と規定した文脈で、 原理主義に対立するものとして万人祭司主義を扱っていた。 このことは、 原理主義というものが解釈権をめぐる相対的な概念であると 考えれば容易に説明ができる。 つまり、万人祭司主義は原理主義なのか、 それとも原理主義に対立するものなのかというのは、 「原理主義」を自称するグループの 立場に応じて変化するのである。

死刑廃止論・参

刑罰は報復を目的とするものではない、と私は考えている。

犯罪の被害者(あるいはその関係者)が犯人を憎むのは 人間として自然な感情である。 被害者が刑罰の執行を、 社会によって代理された報復とみなすことも自然である。 しかし、本来、 刑罰というものは社会の秩序を維持することが目的であって、 被害者の感情と刑罰とは無関係である。

このような意見は、 少なくとも現在の日本においては少数派だろう。 刑罰の第一の目的が秩序の維持にあるということに賛成する人でも、 報復もまた副次的な目的だと考えている場合が 多いのではないだろうか。

「出エジプト記」の中に、 「目には目を、歯には歯を」という言葉がある。 この言葉は、 同害報復(talio)という刑罰について簡潔に説明するものとして よく知られている。

大多数の人間の心の底には、 同害報復を希求する情念が潜んでいる。 自分が犯罪の被害者になった場合のみではない。 まったくの第三者であっても、 犯人に対して同害報復を望む気持ちが湧き起こることがある。

私は最近、そのことを裏付けるひとつの指標を発見した。 カトゥーン(KAT-TUN)という六人組のアイドルグループに 所属しているメンバーの一人に、 上田竜也さんという人がいる。 この人の座右の銘が、 「目には目を、歯には歯を」なのである[1]。

アイドルというものは人々に好感を与えることによって成立する 職業であるように思われる[2]。 もしもそれが正しいとするならば、 座右の銘として公表する言葉の選択に際しても、 好感という観点に立った緻密な計算が働いているはずである。 「目には目を、歯には歯を」という言葉が 座右の銘として選ばれた背景には、 大多数の人間は同害報復に対して好意的であるという 分析があったに違いない。

日本の刑法は、 刑罰を定めるに当たって同害報復の考え方を採用していない。 しかし、刑罰の適用が結果として同害報復となることはあり得る。 たとえば不法監禁の犯人に禁錮を科した場合などである。 日本の刑法は、内乱罪、外患罪、放火罪など、 いくつかの犯罪に対して死刑を規定しているが、 実際に死刑の判決が下された対象は、そのほとんどが殺人罪である。 つまり、死刑というのは多くの場合において、 結果としての同害報復なのである。

現状では、日本人の過半数が死刑の存置に賛成しているらしい。 彼らが死刑に賛成している理由のひとつは、おそらく、 我々が持っている同害報復を希求する情念を 死刑が満足させてくれるからではないか、 と私は推測している。

[1] 『TVJapan関西版』、第3巻第4号、 東京ニュース通信社、2006年4月、p. 5。
[2] この点については、なおも検討の余地がある。 偶像崇拝をめぐる問題のひとつとして考察してみると 面白いかもしれない。

グノーシス主義

「「ダ・ヴィンチ・コード」を読み解く ――キリスト教思想・聖書学・考古学の視点から――」 という講演に関するメモ。

日時は2006年6月10日(土)10:00〜12:00、 場所は同志社大学今出川キャンパス神学館礼拝堂、 講師は小原克博さんと越後屋朗さん、コメントは青木保憲さん、 司会は三宅威仁さん、挨拶は原誠さん。

小原さんの講演のポイントは四つ。 第一に「ダ・ヴィンチ・コード」における象徴について、 第二にその物語をめぐる論争の争点について、 第三にそれが日本で人気を博した理由について、 第四にそれが提起している今後の課題について。

日本人に最適化された一神教を これから布教していこうとしている私にとっては、 第三のポイントがとりわけ興味深い。

キリスト教的な背景のない日本で 「ダ・ヴィンチ・コード」が人気を博した理由について、 小原さんは次のように説明する。 その理由のひとつは、 日本にはもともと グノーシス的なものを歓迎する下地があったからである。 「新世紀エヴァンゲリオン」や「風の谷のナウシカ」や 「攻殻機動隊」などのアニメに日本人が熱狂したのも、 そのような下地があったからに外ならない。 また、鬼束ちひろさんの「月光」という曲の歌詞は、 まさにグノーシス主義と言ってよいものである。

日本人がグノーシス主義に対して 好意的な反応を示すという指摘は、 日本人に最適化された一神教を構築する上で、 きわめて示唆に富むものと言える。

第四のポイントに関して、小原さんは、 宗教的価値と世俗的価値との対立に言及したが、 残された時間がわずかだったためか、 問題の掘り下げが不十分だった。 この問題については、 別の機会に再び取り上げてもらいたいと思う。

越後屋さんの講演のポイントは二つ。 第一のポイントは、聖書学と考古学の視点から見た場合、 「ダ・ヴィンチ・コード」にはどのような誤謬があるか。 第二のポイントは、「ダ・ヴィンチ・コード」の功績は何か。

「ダ・ヴィンチ・コード」の功績について 越後屋さんは次のように言う。 それは、 正典とされている四つの福音書のほかに 多種多様な福音書が存在するということを 広く世に知らしめたことである。 その事実は、聖書学と考古学の専門家には以前から知られていたが、 一般の人々にまで浸透しているとまでは言えない状況だった。 我々が思っている以上に初期キリスト教は多様性に富んでおり、 けっして一枚岩ではなかった。 しかし、グノーシス的な内容を含む福音書は、 正典としては採用されなかったのである。

質疑応答が始まって最初に挙手した、 ヴァチカンで官僚として働いていたと自称する人の発言は、 質問が目的と言うよりも、 自分の知識を披露することが目的だったようである。 オプス・デイに関する彼の発言は、 真偽は別としてなかなか興味深い。 それは次のような発言である。 「小原先生は、 『オプス・デイは得体の知れない組織ではない』 とおっしゃいましたが、 私の知るところでは、オプス・デイは得体の知れない組織です。 それはCIA以上の情報収集能力を持っています。 ちなみに、オプス・デイの京都支部は亀岡にあります」

南濱墓所

ひろんさんが日記で紹介していた南濱墓所を見に行った。

場所は天六と中津のほぼ中間である。 道引き地蔵というお地蔵さんを安置したお堂の左側が 細い通路になっていて、 その通路の奥に、民家と駐車場に囲まれた墓所がある。

墓石は、明治以降のものは数えるほどで、 江戸期の年号が刻まれているものが多い。 形状はかなり多様である。 保存状態は良好とは言い難い。 墓石の周囲は植物が旺盛に繁茂している。

墓所の北端には四基の墓石塔が建てられていて、 異様な存在感を周囲に放っている。 それらはすべて同じ大きさの四角錐で、 東西方向に等間隔で並んでいる。 いずれも頂上には五輪塔が据えられている。 塔の上や周囲では植物が伸び放題で、 もっとも東側にある塔は大部分が蔓草に覆われている。

北の方角へ少し離れた位置に、 南濱墓所の飛地と思われる小さな墓地がある。 こちらのほうは本体よりも整備が行き届いている。 この飛地に関して特筆すべき点は、 立派な六地蔵が鎮座しているということである。

南濱墓所は、 人間を異世界へと誘う霊地としての風格を備えている。 これほどの霊地が大都会の市街地に存在しているというのは 驚くべきことである。 このような素敵な空間を日記で紹介してくださったひろんさんには、 深く感謝したいと思う。

ロングテール的幸福観・弐

本の著者というものは、 自分の本ができるだけ多くの人に読まれることを 願っているに違いない。

しかし、本の著者が得る喜びの大きさは、 読者の数にのみ比例するものではない。 その本の中に著者の個人的な思いがどれだけ盛り込まれているか ということにも比例するのである。

大衆が求めているものをリサーチして、 その結果を反映させた本を書けば、 それはベストセラーとなるかもしれない。 しかし、そのようにして書かれた本は、 たとえ何百万部売れたとしても、著者の得る喜びはわずかであろう。 それに対して、著者が本当に言いたいことだけを綴った本は、 読者がたとえ一人だけだったとしても、 その喜びは計り知れない。

それと同じことは mixiのコミュニティーについても言うことができる。 コミュニティーの管理人としての喜びは、 参加者の人数のみに比例するのではない。 そのテーマが管理人の個性を反映した特殊なものであればあるほど、 それに比例して、 参加者が増加したり掲示板に発言が書き込まれたりすることに伴って 管理人が味わう喜びも大きくなる[1]。

2006年5月22日に私が設立した 「共存型一神教」というコミュニティーは、 私が作った宗教をテーマとするものであり、 私の個性を反映したきわめて特殊なものである。 私は現在、このコミュニティーの管理人として、 上に述べたことを強く実感している。

私は以前、「ロングテール的幸福観」という文章の末尾に、 「人生とは、 ロングテールの先端をめざす旅なのだから」と書いた。

自分の思いに共鳴する思いを持つ人間と出会うことは、 ロングテールの先端へ接近すればするほど困難なものになっていく。 しかし逆に、先端へ接近すればするほど、 出会えたときの喜びは増大する。

『論語』学而篇に、 「有朋自遠方来不亦楽乎」という孔子の言葉が伝えられている。 孔子がそこに加えている「自遠方」という限定には、 ロングテールの先端で朋と出会うことの困難さと、 そのような出会いの楽しさを伝えたい という思いが込められているのではないだろうか。

[1] mixiにおけるコミュニティーに関する規約は、 設立から30日を経過したコミュニティーで、 参加者が1名だけのもの(つまり管理人以外の参加者が 存在していないもの)は自動的に削除される、 と規定している。 しかし、ロングテールの観点から言えば、 この規定は見直されるべきである。 何箇月あるいは何年も待ち続けてようやく参加者が2名となる、 そのようなコミュニティーの存在を認めることによって初めて、 mixiは、 真にWeb2.0的サービスと呼ばれ得るものとなるであろう。
存在論日記2006年/ 6月
Last modified: Sunday, 27 May 2007
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