存在論日記2006年/ 7月

存在論日記:2006年7月

目次

存在論とオントロジー

新しい概念に名前を与える方法には二通りのものがある。 ひとつはまったく新しい単語を造るという方法であり、 もうひとつは、すでに存在する単語を流用して、 それに新しい意味を与えるという方法である。 これらの二つの方法には長所と短所があり、 一方の長所は他方の短所である。

既存の単語を流用する方法の長所は、 単語の持つ豊かなコノテーションが 概念のイメージを生き生きとしたものにすることであり、 短所は、 単語の多義性がしばしば誤解を生む原因となることである。

英語では造語よりも流用が好まれ、 日本語では流用よりも造語が好まれる傾向にある。 その結果として、 英語では流用された単語で呼ばれるのに対して 日本語では造語で呼ばれる概念は、 かなり多い。 たとえば、英語ではfunctionと呼ばれ、 日本語では「関数」と呼ばれる数学上の概念は、 その一例である。

また、日本語では、 外国で作られた新しい概念に名前を与える場合、 それを意味する外国語の単語を カタカナで音訳したもので済ませることも多い。 これもまた造語の一種と考えることができる。

知識工学の研究者たちが、 自分たちが扱っている概念のひとつに対して ontologyという名前を与えた背景には、 その単語が持っている豊かなコノテーションが 自分たちの研究を大いに推進してくれるだろうという 期待があったに違いない。

一方、 ontologyという概念を輸入した日本の研究者たちが、 それを意味する日本語の単語として 「オントロジー」を採用した背景には、 哲学におけるontologyと工学におけるontologyのそれぞれに 異なる単語を与えることによって、 多義性を原因とする誤解を未然に防ごうという 意図があったに違いない。

私は、ontologyを意味する日本語の単語としては、 多義性を導入することになるという欠点を 考慮に入れたとしてもなお、 「オントロジー」という造語ではなく 「存在論」という既存の単語を 流用するべきだったのではないかと考えている。 しかし、 工学の分野において 「オントロジー」という単語が定着した現在となっては、 それを「存在論」と呼ぶべきだと主張しても、 無用な混乱を招くだけであろう。 したがって、私がここで主張することが許されるのは、 次のような一般論に留まる。

理科系の学問においても、新しい概念に名前を与える際には、 造語一辺倒ではなく、 古くから使われている単語のコノテーションを利用することを 考慮に入れてもいいのではないか。

イスラエル

「イスラエル――民主主義、宗教、 そしてイスラエル・日本関係について」 という講演に関するメモ。

日時は2006年7月8日(土)14:00〜16:00、 場所は同志社大学今出川キャンパス神学館礼拝堂、 講師はエリ・コーヘン(Eli Cohen)さん、 司会と挨拶は森孝一さん。

コーヘンさんの講演の骨子は、 イスラエルは民主主義の国家であり、その国民は、100%、 信仰の自由を権利として持つ、ということである。

しかし、 イスラエルが民主主義の国家であるということが事実だとしても、 イスラエルが宗教国家であるということもまた事実であり、 宗教国家において民主主義を実現するためには、 各種の複雑な問題を解決することが必要となる。

婚姻というのも、解決を必要とする問題のひとつである。 コーヘンさんは、 イスラエルにおける婚姻について次のように語った。

「イスラエルにおいては、 婚姻は自分たちの宗教に基く儀式によって成立する。 結婚しようとする男女の宗教が異なる場合は、 どちらか一方が改宗しなければならない。 そのため、最近はキプロスでビジネスが繁昌している。 イスラエルの国民が、キプロスへ行って弁護士の前で結婚を誓い、 そしてイスラエルに戻ってくるのである。 イスラエルはその方法を認めているが、 彼らの子供たちをどう扱うかというのは未解決の問題である」

私は、 宗教の選択は 個人的な理由に基くものでなければならないと考えている。 したがって、 婚姻などの社会的な理由によって改宗を要求するということは、 けっして許されるべきではないと思う。

日本におけるキリスト教は、 キリスト教に対する信仰を持たない男女が キリスト教の儀式によって婚姻を成立させることを認めている。 このことは、 儀式の形態と信仰とは一致している必要がないという通念を 多くの日本人が持っていることを意味している。 私は、 このような日本的な通念が地球的な規模で普遍化することを 願わずにはいられない。

政教分離というのはあくまで理念であって、 それを完全に実現することは困難である。 したがって、イスラエルのみならず、 いかなる民主主義国家においても、 社会的な制度の中に宗教的な価値観が混入することは 避けることができない。 日本においても、 象徴天皇制という形で憲法に混入している価値観は、 宗教色がかなり薄められているとは言え、 国家神道を背景として持つものであり、現在もなお、 日本における祭政一致運動に力を与え続けている。

滋賀革命

みちみちさんの日記に 「童話のその後」というエントリーがあって、 そこに、

童話のシンデレラはハッピーエンドだと思っていたけれど、 ある国の王子と結婚して、嫁ぎ先になじんだんだろうか? 王族という家系で周囲とうまくやっていけたのかな? とふと考えてしまう。

と書かかれていたので、悪乗りして、 そのエントリーに次のようなコメントを付けてみた。

シンデレラのその後ですが、低い身分の出身なので、 おそらく次のような物語になるのではないかと思われます。
(1) 王制に矛盾を感じて離婚。
(2) 民主化運動に身を投ずる。
(3) 革命勃発。陣頭に立って民衆を指揮。
(4) ついに王宮は陥落。
(5) 地下牢にて王子と再開。
(6) 普通選挙による議会が成立。
(7) 初代の首相となる。
監督:リュック・ベッソン、 主演:ミラ・ジョボビッチで映画化決定!(嘘)

このコメントを改めて読み返してみた私は、 「そんな企画が本当に実現したら、 ぜひ観てみたい(笑)」と思った。

私は昔から、 被支配者が支配者に抵抗する物語というのが 感動のツボになっているようである[1]。 「猿の惑星・征服」(1972年、監督:ジョン・リー・トンプソン)、 「郡上一揆」(2000年、監督:神山征二郎)、 「アイランド」(2005年、監督:マイケル・ベイ)などの映画が 鮮烈な印象を私に残したのは、 それらの映画が私の感動のツボを押さえていたからである。

民主主義というのは、 集団の成員が社会体制を自由に選択することのできる 制度のことであると考えることができる。 したがって、民主主義の社会においては、 「現在の社会体制は望ましいものではない」 と成員の大多数が思った場合、 民主主義的な手続きによって社会体制を変更することが可能である。 すなわち、民主主義的な集団の成員は、 常に無血革命が可能な状態に置かれているのである。

2006年7月2日、滋賀県民は、滋賀県知事選挙において、 二期に渡って知事を務めた国松善次さんを退け、 政治の世界ではまったく無名だった嘉田由紀子さんを選出した。 この選択は、革命ロマンを愛好する私に大きなカタルシスを与えた。 私は、 この快挙から始まる一連の政治的変動に対して 「滋賀革命」という名称を与えることにしたい。

滋賀革命は、まだ第一章が終わったに過ぎない段階である。 日本の地方自治制度においては、 知事や市長はあくまで執行機関であり、 地方公共団体の意思を決定するのは県議会や市議会である。 したがって、嘉田由紀子さんが知事に選出されたからと言って、 その民意がただちに県政に反映されるわけではない。

滋賀革命の次のステップは県議会議員選挙である。 おそらく現職議員たちの多くは、 旧来の社会体制を守るために民意の反映を阻止しようとするだろう。 滋賀県民は、 それに対してどのような闘いを展開するのだろうか。

[1] 私の感動のツボはもうひとつあって、 それは貴種流離譚である。 しかし、革命ロマンと貴種流離譚というのは、 物語の類型としてまったく別のものとは言えないように思われる。
存在論日記2006年/ 7月
Last modified: Sunday, 27 May 2007
Copyright (C) 2006-2007 Daikoku Manabu