存在論日記2006年/ 10月

存在論日記:2006年10月

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問いかけとしての美術

京都文化博物館で、 「センス・オブ・ウーマン」という美術と工芸の展覧会を見た。 ひときわ印象に残ったのは、 伊庭靖子さんという人が描いた 「untitled」(2000年)という絵画である。

きわめて美しい絵である。 現代美術はかならずしも「美」を追求するものではないとは言え、 美しいことは評価に値する。 全体が黄土色に近い黄色に覆われているのだが、 そこに加えられた微妙な明暗が美しさを生み出している。

しかし、その絵が強い印象を残した理由は、 それが美しい作品だったからではない。 その作品が表現している問いかけが鮮明だったからである。

この絵は、 あたかも光が戯れているかのような陰影を キャンバスの上に定着させている。 それは、カメラが偶然に捉えた一瞬の光景に似ている。 現実に存在する一枚の写真を そっくりそのまま絵具でキャンバスに写し取ったものである と考えても違和感を感じさせないほど、 この絵は写真に似ている。 そして、そのことによって問いかけを表現しているのである。

この絵に向かい合う者は、 絵画の表面に存在する形象とは何なのか、 具象と抽象との相違点はどこにあるのか、 そもそも絵画とは何なのかと、 この絵から果てしなく問いかけられることになる。

現代美術とそうでないものとを区別する最大の相違点は、 表現内容が完結しているか開かれているか というところにあるのではないかと私は考えている。 言い換えれば、 「その表現内容が問いかけであるもの」というのが、 現代美術に対する私の定義なのである。 そのような私の定義にしたがえば、伊庭さんの絵は、 紛れもなく現代美術の本道を歩むものと言うべき作品である。

キリスト教サポート終了のお知らせ

一神教信者各位

日頃より弊社製品をご愛顧賜りまして厚く御礼申し上げます。

さて、弊社は西暦610年に、 キリスト教の後継バージョンとなる一神教といたしまして、 イスラームをリリースいたしました。 お蔭様を以ちまして、 イスラームは現在では約10億人の信者様に ご信仰いただくまでに至っております。

旧バージョンのキリスト教につきましては、 イスラームのリリース後も引き続き サポートを継続させていただいておりましたが、 この度、誠に勝手ではございますが、 弊社のライフサイクルポリシーに従いまして、 西暦1999年を以ちまして サポートを終了させていただくこととなりました。 キリスト教信者の皆様にはご不便をおかけいたしますが、 何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。

なお、弊社は現在、 一神教の次期バージョン(コードネームPolynity)を 鋭意開発中でございます。 西暦2006年のリリースを予定いたしておりますので、 どうぞご期待ください。

第一原因株式会社
Causa Prima Co., Ltd.
http://www.monotheism.jp/

呪物としての携帯電話

最近、学生との雑談の中で、 「なんでケータイを持ってないの?」と質問されることが多い。

おそらく、学生たちの世代の人間にとっては、 携帯電話というのは所持していて当然のもので、 それを所持していない人間は特殊な存在に見えるのだろう。

人類の歴史の中で、 人間が携帯電話というものを所持するようになったのは、 かなり最近のことである。 したがって、過去の人間を母集団に含めると、 携帯電話を所持していない人間というのは圧倒的な多数派である。 そのことを考慮すれば、 携帯電話を所持していない人間に対して その理由を質問するというのは、 それほど意味のある行為とは思えない。 むしろ、 携帯電話を所持している人間に対して その理由を質問することのほうが、 はるかに有意義である。

人間が携帯電話を所持したいと望む最大の理由は、 それが便利だからであろうと思われる。 私も、その点について異論はない。 しかし、携帯電話の驚異的な普及率は、 便利だからという理由のみで説明できるものではないと思われる。 利便性という顕在的な動機の下層に、 潜在的な動機が隠されているのではないだろうか。

私は、人間が携帯電話を所持したいと望む心理の背景には、 携帯電話を呪物(fetish)とする 呪物崇拝(fetishism)があると考えている。

呪物というものは、多くの場合、 人間によって所持される何らかの物体である。 携帯電話がこの条件を満足しているということに 疑問の余地はなさそうである。

また、呪物は通常、超自然的な力を持つと信じられている。 それに対して、 携帯電話が超自然的な力を持っていると考えている人間は ほとんどいないと思われる。 しかし、機械の使用者にとって、その機械は、 それが利用している科学技術が 使用者の理解の範囲を越えている場合、 ほとんど超自然的と呼んでも違和感のない 神秘的な力を持っているように感じられるのではないだろうか。 「充分に発達した科学技術は魔法と区別が付かない」という アーサー・C・クラークの第三法則を 援用することもできるだろう。

さらに、呪物はしばしば、 投げ棄てられたり破壊されたりというような 虐待の対象となることもある(この性質は、 呪物と偶像(idol)とを区別する上で重要である)。 携帯電話も、虐待の対象になることがあるのだろうか。

残念ながら、私は、 誰かが携帯電話に虐待を加えているところを目撃したことはない。 しかし、最近の映画には、 携帯電話を海などに向かって投げ棄てたり、 何かに叩きつけて壊したりする場面が 含まれているものが少なくない。 それらの映画の場面は、 現実にそのような行為が頻繁に発生していることの 反映であろうと思われる。

存在論日記2006年/ 10月
Last modified: Sunday, 27 May 2007
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