存在論日記2006年/ 11月

存在論日記:2006年11月

目次

トマス・アクィナス礼讃

私は今年の2月ごろに、 トマス・アクィナスがラテン語で書いた 「神学大全」(Summa Theologiae)の原文[1]を読み始めた[2]。

先日、ようやくのことで第一部第一問題第一項を読み終えた[3]。 しかし、全体の分量に比較すると、 これはまったく微々たるものである。 玄奘三蔵の取経の旅にたとえるなら、 いまだ長安の城門から一歩も外へ出ていない段階と言える。 これから先の道のりを思うと、気が遠くなりそうである。

ちなみに、私はカトリックの信者ではない。 そのような私が「神学大全」を読んでいると聞いて、 カトリックの神学について述べた書物である「神学大全」を カトリックの信者ではない人間が読んで、 はたして面白いのだろうか、 という疑問を持った人は多いに違いない。 しかし、この書物の面白さは、 読者がカトリックの信者であるか否かとは 無関係のように思われる。

「神学大全」が持っている普遍的な面白さは、 それを書いたトマスが持っている 透徹した知性に由来するものである。 おそらく、トマスがカトリックの神学者として業績を残したのは、 彼が生まれた時代と地域と境遇による制約の結果であろう。 彼が書いたテクストの背後には、 カトリックという枠組みにとらわれず、 きわめて自由に飛翔し得る知性が存在しているように思われる。

トマスは、もしも異なる時代、異なる地域、 異なる境遇に生まれていたとしても、それらの制約の中で、 やはり学者として大きな業績を残したに違いない、 そのような希有な精神の持ち主である。

[1] http://www.corpusthomisticum.org/iopera.html
[2] 原文を読んでいると言っても、 いまだにラテン語の読解力がほとんどゼロに近いため、 辞書で単語の意味を調べただけではまったく意味が解明できず、 山田晶さんや高田三郎さんの日本語訳を参照して初めて 意味が理解できるというお粗末な状況であるが。
[3] http://theologia.jp/prima/001/01.htm

宇宙に一つだけの真理

盗作はモラルに反する行為である。 しかし、 モラルに反するからという理由で盗作者を非難することは 間違っている。

そもそも、あらゆる創作は盗作なのである。 たとえば小説を読んだことのない人間が小説を書くことはできない。 人間が小説を書くという行為は、 意識および無意識の両レベルにおいて、 自分が過去に読んだ小説を模倣することである。 文学のみならず、音楽、美術、映画、工芸、芸能など、 その他の芸術においても同様である。 したがって、あらゆる創作はモラルに反する行為なのであり、 倫理的に悪であるという点において、すべての創作は等価である。 創作者は、この点を自覚していなければならない。

盗作はほとんどの場合、 出典として特定の作品を想起させることはない。 しかし、創作者は時として、 人口に膾炙した作品を想起させようという意図のもとに 盗作を実行することもある。 そのような盗作はレトリックの用語で 「暗示引用」(allusion)と呼ばれる(暗示引用の下位概念として パロディーやパスティーシュなどがある)。 ただし、暗示引用とそうでない盗作との境界線は明確ではない。

自分の作品を盗用された被害者は、その盗用に対して、 怒りや悲しみや喜びなどのさまざまな感情的な反応を示す。 しかし、盗作の被害者は原則として、 盗作者を笑って許してあげるべきである。 なぜなら、出典が明らかであるような盗作も、 人類の文化を豊かなものとすることに貢献しているからである。

しかし、非難されてしかるべき盗作というものも存在する。 それは、レトリックとして失敗している暗示引用である。 すなわち、明らかに特定の作品を想起させるにもかかわらず、 それによって レトリックとしてのいかなる効果も得られていないような盗作は、 非難されるべきなのである。

昨今、盗作をめぐる言説がしばしばネットを賑わしている。 私は、それらの言説に接するたびに違和感を覚える。 その理由は、それらの言説においては、 レトリックとしての効果よりもむしろ倫理的な観点から 盗作について論ぜられる傾向があるように思われるからである。

橋口たかしさんの「焼きたて!!ジャぱん」は、 パロディーやパスティーシュが頻出する楽しい漫画である。 その漫画に暗示引用された作品のひとつに「銀河鉄道999」がある。 しかし、 松本零士御大がその盗用を非難したという話は寡聞にして知らない。 御大は、 自分の作品の盗用に対して ことごとく目くじらを立てるような小人物ではない。

槇原敬之さんが作詞作曲した 「約束の場所」という楽曲の歌詞も、 「銀河鉄道999」からの暗示引用を含んでいる。 仄聞するところによると、御大は、 この盗用に対しては怒りを爆発させたらしい。

橋口さんとマッキーのそれぞれの暗示引用に対して 御大がまったく異なる反応を示した理由は、 いったい何なのだろうか。 これについては推測の域を出ないが、牽強付会すれば、 レトリックとしての効果を認めることができたか否かではないか と私は考えている。

聞くところによると、 御大はマッキーに対して謝罪を要求したらしい。 しかし、私は御大に言いたい。 謝罪を要求する必要などないと。 マッキーによる暗示引用はレトリックとしての効果が乏しい ということさえ指摘すれば、 それだけで十分ではないか。

本当に新しいものを創ることができるのは神様だけで、
人間にできるのは何かを真似することだけだとメーテルは言う。
もしもそれが本当なら、
この漫画の作者は何を怒っているのだろうと鉄郎は思った。

仏教における罪について

仏教においては罪というのはどのように説かれているのか という質問をららさんからいただいたので、 私の理解が及ぶ範囲内で答えることにしたい。

仏教における罪について考える場合に基礎となる教説は、 縁起説である。 「縁」は原因、「起」は結果を意味する。 すなわち縁起というのは因果関係のことである。

原始仏教における縁起説は、 善因は善果をもたらし悪因は悪果をもたらすという、 科学的に解明することのできない 超自然的な因果関係を説くものである。 生老病死という苦悩は、煩悩を原因として生じた結果である。 したがって、原始仏教においては、罪とは、 人間に苦悩をもたらす原因となる 感情や行動のことだと考えることができる。

しかし、大乗仏教の成立とともに縁起説は拡大解釈され、 それに伴って罪に対する考え方にも変化が生じた。

大乗仏教における縁起説は、 善悪に関する因果関係を説くものではなく、 すべての因果関係は相互依存的であるという、 すべての存在者を規定する原理である。 すなわち、AがBの原因であるならば、 同時にBもまたAの原因である というのが大乗仏教における縁起説である。 大乗仏教において「空」と呼ばれるものも、 存在者の相互依存性を意味する。

しかし、すべての人間が、 因果関係を相互依存的に見ることができるわけではない。 縁起を見ることができない状態は、「無明」と呼ばれる。 大乗仏教における仏とは、無明を断った人間、 すなわち縁起を見ることのできる人間のことであり、 人間がその状態に到達することが「悟り」と呼ばれる。 悟りを開くために必要なものは、般若、 すなわち経典に説かれた智慧である。 原始仏教とは異なり、煩悩を断つことによって仏となるのではない。 いかなる悪人であろうとも、 仏となる可能性を持っているのである。

そのような理由によって、大乗仏教においては、 煩悩によって生ずる罪がそれほど強く排撃されることはない。 ただし、例外的ではあるが、 人間の特定の罪を強く排撃している大乗仏教の経典も存在する。 「法華経」譬喩品には次のように説かれている。

シャーリ=プトラよ、 もし余がいま余の経典を捨て去る者の罪を数え上げるとすれば、
たとい一劫を満了するまで数えたとしても、 その終りに達することはできない。[1]

すなわち、 「法華経」においては経典の智慧は神格化されていて、 その智慧を謗ったり、 それを衆生に説くという行為を妨害したりすることは、 最大級の罪とみなされるのである。

ここから先は余談である。山折哲雄さんは、

宗教にはそれがどんな種類の宗教であれ、 いわば正気の部分と狂気の部分が含まれているということです。[2]

と述べている。 私は、宗教に含まれている狂気の部分というのは、 実のところは 人間が無意識の中に持っている普遍的な狂気のことであって、 それが宗教の一部分であるかのように見えるのは、 無意識の中にあるものが 宗教によって顕在化させられるためではないかと考えている。 そして、もっとも強く狂気を顕在化するのは、 宗教によって意味が与えられた罪である。

世俗的な観点から言えば、罪というのは単に、 社会秩序を維持するために作られた規則に違反することに過ぎない。 罰則が規定されている場合、その罰を受ければ罪は消滅する。 罪というのは本来、そのようなドライなもののはずである。

しかし、宗教において神聖とされたものを謗る罪は、 ドライな罪ではない。 それは、 人間が無意識の中に持っている普遍的な狂気を呼び覚ます 鍵となるものである。 宗教がしばしば、異端者を火炙りにしたり、 敵対する勢力を殺戮したりするのも、 自分たちが神聖だと信じているものを謗られることによって 狂気が呼び覚まされるからである。

[1] 『法華経』、上巻、阪本幸男・岩本裕訳、 岩波文庫、岩波書店、1962、p. 217。
[2] 山折哲雄、「解説」、脇本平也、 『宗教学入門』、講談社学術文庫、講談社、1997、p. 331。

記号列一元論

私は先月、 「存在論」というmixi内コミュニティーで 「記号列一元論」というものに言及したが、 そのときの説明はあまりにも簡単すぎるものだったので、 ここでもう少し詳しく説明しておくことにする。

記号列一元論というのは、 私が考えている存在論のひとつである。 この存在論においては、 次の四つのものが基本的な存在者である。

(1) 2個以上の有限個の記号から構成される集合
(2) 有限長のすべての記号列から構成される集合
(3) 記号列が論理式かそうでないかを判定する構文規則
(4) 論理記号の意味論

なお、論理式は、論理記号、変項、述語名、 個体名から構成されるが、 意味論が存在するのは論理記号と変項のみである。 述語名と個体名の意味論は存在しない。

記号列一元論においても、 「世界」というメタレベルの概念が存在する。 世界というのは、論理式の集合のうちで、

それに含まれる2個の論理式のいかなる組み合わせについても、 それらの連言である論理式は恒偽式ではない。

という条件を満足するもののことである。 もう少し簡単に言えば、論理式の集合のうちで、 含まれている論理式のあいだに矛盾がないもの、 ということである。

記号列一元論が「一元論」と呼ばれる理由は、それが、 論理式の集合によって記述されたものを「世界」とみなす 通常の存在論とは違って、 論理式の集合そのものを「世界」とみなし、 それによって記述されるものは存在しない と考えるところにある。

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Last modified: Sunday, 27 May 2007
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