存在論日記2007年/ 1月

存在論日記:2007年1月

目次

皇族公選制度

私は、現行の天皇制は修正が必要であると考えている。 なぜなら、 鷹嘴さんも「皇族に人権なし!」[1]で指摘しているように、 現行の天皇制は一種の奴隷制度だからである。

現在の日本においては、 日本人という人間の集団は国民と皇族に分類される。 日本国憲法は、国民に対しては多くの自由を保証しているが、 皇族の自由については何ひとつ言及していない。 皇室典範にも、皇籍離脱について規定する第十一条を除いて、 皇族の自由を保証する規定はほとんどない。 そして事実上、皇族の自由はきわめて制限されている。 特に、言論の自由と職業選択の自由はほとんどゼロに近い。

私は、「サウジアラビア王国」[2]で述べたように、 伝統の中に含まれている不当な価値観は バグとしてフィックスしなければならないと考えている。 天皇制は日本という国家の根幹に位置する伝統であるが、 現行の天皇制を奴隷制度にしている原因は それに含まれているバグであり、 したがってそれはフィックスされなければならない。 現行の天皇制に含まれているバグというのは、 血統に意味を認める価値観である。

血統に意味を認める価値観は 天皇制のみではなく多くの伝統に含まれているものであり、 それらの伝統のすべてにおいて その価値観が不当なものであるとまでは言えない。 しかし、 血統によって継承されるものが何らかの自由の制限である場合、 それは不当な価値観とみなされなければならない。 なぜなら、本人の意思とは無関係に、 何らかの血統を持つ人間から自由を奪うことになるからである。 したがって、現行の天皇制に含まれている、 血統に意味を認める価値観は、不当なものであると言ってよい。

現行の天皇制において 血統に意味を認める価値観を制度化しているのは、 「天皇及び皇族は、 養子をすることはできない」という皇室典範第九条の規定である。 私は、この規定を撤廃した上で、 新たに皇族公選制度を創設するべきであると考えている。 すなわち、 自由が制限されてもかまわないという意思を表明した 立候補者の中から皇族にふさわしい者を公選し、 それらの人間を皇族の養子とすることによって 次代の皇族とするのである。 そうすれば、世襲制という伝統を維持しつつ、 血統に意味を認めるという不当な価値観を 天皇制から排除することができる。

[1] http://himadesu.seesaa.net/article/18977412.html
[2] http://sonzai.org/2006/12.htm#saudi

二段階創造説

二段階創造説は、 世界の創造のみならず芸術の創造においても有効である。

芸術における創造の二段階というのは、範型の創造と、 その解釈である(ここで私は、「範型」という言葉を、 「解釈の余地を残した創作物」という意味で使っている)。 たとえば、作曲家が書き記した楽譜は典型的な範型であり、 その作品は演奏者による解釈を経ることによって完成される。

音楽以外の芸術においては、 鑑賞者が解釈者を兼ねる場合が多い。 たとえば、紙に書かれた詩歌は範型であり、 その作品は読者の解釈を経ることによって完成される。 したがって、芸術を鑑賞する楽しみの中には、 芸術の創造に参加する楽しみが多分に含まれている。

脚本があまりにも完璧すぎる映画は、 解釈の余地が少なくなるため、 それほど面白いものではなくなってしまう。 しかし、全米が絶賛したと言われる映画の中には、 脚本が完璧すぎるために つまらなくなってしまっているものが少なくない。 アメリカ人は、解釈の余地が残されている脚本よりも、 職人芸的に練り上げられた脚本を 評価する傾向にあるのかもしれない。

解釈の余地という点に関して アメリカ人の対極に位置しているのは日本の腐女子たちである。 『ゲド戦記』(監督は宮崎吾朗さん、 原作はアーシュラ・K・ル=グウィンさん)が ヒットした理由について、 杉浦由美子さんは次のように分析している。

映画の中では最後まで少年が父を殺した理由は説明されない。 この「説明されない部分」、つまり、 普通は脚本の「穴」とされる部分だが、そこを、 腐女子は自分の想像で埋めていくことを好む。[1]

解釈の余地が少ないハリウッド的な物語は、 消費されたのちに忘却の彼方へ去ってしまう。 それは、 生産者から消費者へ一方通行で流通する工業製品に似ている。 それに対して、解釈の余地の多い腐女子好みの物語は、 二次創作という再生産の原動力となる。 そして二次創作は、次の世代の一次創作を生み出す苗床となる。 「文化」という言葉は、 このような循環のことを指しているのではないだろうか。

これからもますます世界が腐女子化することを願いつつ 筆を擱くこととしたい。

[1] 杉浦由美子、 『腐女子化する世界――東池袋のオタク女子たち――』、 中公新書ラクレ、229、中央公論新社、2006、p. 54。

豊川稲荷

愛知県豊川市豊川町1番地に鎮座する豊川稲荷を訪問した。

豊川稲荷は、妙厳寺という曹洞宗の寺院の鎮守として、 その境内に開創された稲荷神社である。 仏教系の稲荷神社なので、その祭神はダキニ天である。

伏見稲荷大社、祐徳稲荷神社、最上稲荷などは、 背後に山があってそこが霊場になっているが、 豊川稲荷が鎮座しているのはきわめて平坦な土地であり、 本殿と奥の院とのあいだに標高の差はない。 しかし、 「霊場」と呼び得る場所がまったく存在しないわけでもない。 「霊狐塚」と呼ばれる塚があり、 その周囲には奉納された狐の石像が無数に立ち並んでいる。 大阪市天王寺区にある豊川稲荷の別院にも 無数の狐が奉納されていることを考えると、 他の別院でも同様の習俗が見られるのかもしれない。

豊川稲荷に関して私が奇異に思った点は、 その本殿[1]の巨大さである。

寺院においては、 その堂宇にはランドマークとしての機能があるため、 東大寺の大仏殿、西本願寺の御影堂、善光寺の本堂など、 巨大さに意味があると思われる堂宇が少なからず建設されてきた。 しかし、神社においては、 本殿の大きさというのは それほど重要な意味を持っているわけではない[2]。 拝殿の大きさに比べて 本殿があまりにも小さいことに驚かされることも少なくない。 豊川稲荷の本殿は、 寺院の堂宇ではなく神社の本殿であるにもかかわらず、 あまりにも巨大である。 なぜ、 これほどまでに巨大な建築物を 作らなければならなかったのだろうか。 単に、 純粋な神道の神ではなく仏教系の神を祀る建築物であるために、 仏教の価値観が反映されているだけなのだろうか。

[1] ちなみに、豊川稲荷には拝殿は存在しない。
[2] おそらく、 神社においてはランドマークとしての機能は 本殿ではなく鳥居に与えられているのであろう。

シンデレラのその後・日本版

私は以前、 「滋賀革命」[1]という文章の中で シンデレラのその後の物語に言及したが、 その日本版というのも面白いかなと思ったので、作ってみた。

(1) キャリアと人格を否定されることに耐え切れず、離婚。
(2) 衆議院議員に東京一区から立候補してトップ当選。
(3) 首相に就任。
(4) 天皇制の廃止を骨子とする憲法改正案を起草。
(5) 憲法改正案、国民投票で成立。
(6) 政界から引退し、国連難民高等弁務官に就任。
(7) ケニアのダダーブにて元皇太子と再開。

監督:アレクサンドル・ソクーロフ、 主演:常盤貴子で映画化決定!(嘘)

[1] http://sonzai.org/2006/07.htm#kakumei

大阪聖トマス大学

英知大学が 2008年4月に日本語の名称を「大阪聖トマス大学」に変更することを 決定したそうである[1]。

報道によれば、改名の理由は、 「エッチ大学」と呼ばれて学生がからかわれること、 インターネットで「英知」を検索すると英知出版がヒットすること、 大学の名称にSaint Thomasを入れることによって カトリック系大学の世界連合組織である 聖トマス・アクィナス大学国際協議会 (International Council of Universities of Saint Thomas Aquinas, IC-USTA)への加盟が 可能になることなどのようである。 しかし、私は、それらの理由のほかに、 報道されていないもう一つの理由があると考えている。 それは、マーケティング上の戦略の変更である。

英知大学はカトリック系のミッションスクールであるが、 「英知大学」という名称は カトリック色をそれほど感じさせないものである。 この名称が選ばれた背景には、 カトリックの信仰を持たない人々をも ターゲットとして取り込もうという マーケティング上の戦略があったと思われる。 それに対して、 「大阪聖トマス大学」という名称は きわめてカトリック色の強いものである。 カトリックの信仰を持つ人々にとっては魅力的な名前であるが、 それを持たない人々に対しては、 少々近寄り難いという印象を与えかねない。

大学全入時代を迎えた現在、多くの大学は、 いかにして生き残るかという課題に直面している。 現在の状況の中で大学が生き残るために有効な戦略は、 ターゲットを広げることではなく、 何らかの点でオンリーワンの存在であることを アピールすることによって、 その点に魅力を感じる人々にターゲットを絞ることである。 英知大学は、 関西圏にある共学のカトリック系ミッションスクールという点で オンリーワンの存在であることをアピールすることによって、 カトリックの信仰を持つ人々に ターゲットを絞ろうと考えたのではないだろうか。

しかし、名称を変更しただけでは、 カトリックの信者たちに対して 魅力をアピールする上で十分ではない。 教育の内容においてもカトリック色を強くする必要があるだろう。 私は、単に聖トマスを名前として冠するのみならず、 聖トマスを中心とする教育と研究の拠点となることを 目指してはどうかと提案したい。

最後に宣伝をひとつ。 英知大学が「大阪聖トマス大学」に改名することを記念して、 リンク集[2]を作ってみた。 まだまだ不十分なものであるが、 少しずつ充実させていきたいと思っている。

[1] 英語の名称は、 1月16日に Saint Thomas University of Osakaに変更されている。
[2] http://aquinas.jp/stu/
存在論日記2007年/ 1月
Last modified: Sunday, 27 May 2007
Copyright (C) 2007 Daikoku Manabu