存在論日記2007年/ 3月

存在論日記:2007年3月

目次

均質性

榊法存さんの法話に関するメモ。

日時は2007年3月3日(土)午前7時ごろ、 場所は真宗本廟(東本願寺)阿弥陀堂。

榊さんはまず、最近起こった自身の体験を語った。 それは次のようなものである。 「私は、 引きこもりになっている若い女性からメールをもらっていた。 しかし、メールのチェックを怠っていて、 彼女からのメールをしばらく放置してしまっていた。 メールに気が付いて、返事を出そうと思っていた矢先、 彼女が自ら命を絶ったという知らせを受けた」

そして榊さんは、 自分が彼女を殺してしまったのかもしれないという 反省の上に立って、 次のように提言した。 「私たちは、 引きこもりの人たちをなんとかして外へ連れ出そうとしている。 しかし、それは間違いである。 私たちが彼らにしなければならないのは、 「引きこもっていてもいいんだよ」というメッセージを 彼らに送ることである」

榊さんの意見には私も同感である。 現代の日本の社会には、均質性に価値を置く価値観が蔓延している。 異質な行動をする人間に対しては、 その行動をやめさせようとする圧力が加わる。 引きこもり、不登校、ニートなどは、 その存在も許されてしかるべきであるにもかかわらず、 大多数の人間と同じ行動ができるように 彼らを矯正しなければならないという主張が幅を利かせている。 我々がしなければならないことは、 異質な存在を矯正することによって 社会の均質性を維持することではなく、 異質な存在が異質なままで共存することのできる社会を 構築することである。

人間の尊厳

「カトリック大学の使命と若者の未来」 という講演に関するメモ。

日時は2007年3月3日(土)13:30〜17:00、 場所は京都ノートルダム女子大学ユニソン会館、 講師はマタイス・アンセルモ(Anselmo Mataix)さん、 総合司会は小久保喜以子さん。

マタイスさんの講演の骨子は次のようなものである。 「オルテガは、専門家を「野蛮人」と呼んで非難した。 最近、専門家が起こす不祥事が多いが、 その原因は大学が中心を失ったという点にある。 中世の大学には神学という中心があり、 近代になって中心は哲学に移ったが、 現代の大学は中心に向けて統一されていない。 しかし、カトリック大学には中心的なものがあるはずである。 それは「人間の尊厳」(human dignity)であり「出会い」である。 カトリック大学は出会いの場でなければならない。 人と出会うことは神と出会うことである」

講演ののちのフォーラムで、 吉澤健吉さんが次のような発言をした。 「外から見ると、カトリック大学は内向きになっている。 社会のニーズに応えなければならない。 そのためには カトリックとプロテスタントとの壁を取り払う必要がある。 同志社大学の一神教学際研究センターとも連携してはどうか。 さらに仏教系の大学との連携も必要である。 龍谷大学の図書館にある膨大な蔵書も利用してはどうか」

おそらく、 マタイスさんの講演を聴講した人々のうちで カトリックの信者ではない人の多くは、 吉澤さんの意見に共感を覚えたに違いない。 私もその一人である。

マタイスさんの話は、けっして間違っているわけではない。 しかし、 カトリック大学のみに話を限定しなければならない必然性が どこにあるのかということが、 私には理解できなかった。 虐待、イジメ、DV、セクハラ、パワハラなど、現代の問題の多くは、 まさに「人間の尊厳」に深くかかわるものである。 宗教的な価値観のもとに人間の尊厳について 考えることのできる人間を育成するという使命は、 カトリック大学のみならず、 すべての宗教系の大学にとって 共有することのできるものである。

カトリック大学がカトリックとしてのアイデンティティーを 維持する努力をすることは、 大いに必要なことであると私も思っている。 しかし、 アイデンティティーを維持する方向にのみ努力を傾けることは バランスを欠いたものである。 他の宗派、 他の宗教にもとづく大学との連携を密にする方向への努力も 不可欠なのではないだろうか。

独裁者

先日、 「ラストキング・オブ・スコットランド」 (原題はThe Last King of Scotland、 監督はケヴィン・マクドナルド(Kevin MacDonald)さん、 原作はジャイルズ・フォーデン(Giles Foden)さん) という映画を観た。

「ラストキング・オブ・スコットランド」は、 ウガンダ共和国のアミン大統領が 独裁者として暴走(あるいは崩壊)していく過程を、 実話をベースにして描いた映画である。

アミンが暴走したのは、 彼が特殊な人格を持つ人間だったからではない。 おそらく、独裁者という職業には、 誰もが心の中に持っている負の側面を引き出してしまう危険性が 常に潜んでいるのだろう。 この映画では、アミンが暴走した原因として、 暗殺に対する恐怖が強調されている。 確かに、 恐怖という感情は 独裁者を暴走させる最大の要因なのかもしれない。

民主制も独裁制の一種である。 すなわち、民主制というのは、 民衆という名の独裁者が統治権を持つ政治体制のことである。 負の側面が引き出されるという点は、 独裁者が個人であっても民衆であっても同じことである。 そして、独裁者が暴走する最大の要因が恐怖であるということも、 個人と民衆に共通している点のひとつではないだろうか。

民衆は、 恐怖に支配されたときに容易に暴走してしまう存在である。 たとえば、 アメリカの民衆のあいだに 大量破壊兵器に対する恐怖が蔓延していなかったとすれば、 彼らはけっしてイラクに対する開戦という政策を 支持しなかったに違いない。

恐怖によって民衆を操作するという手法は、 日本国憲法の改正においても有効である。 憲法改正をめぐる論議においては、 戦力を保持しないという第九条第二項の条文をどうするのか ということが最大の焦点となっている。 もしも、 戦力の保持を認める改正案の方向へ世論を誘導したいとするならば、 そのためのもっとも適切な方法は、 他国から侵略されるのではないかという恐怖を 民衆に植え付けることであろう。

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Last modified: Sunday, 27 May 2007
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