存在論日記2007年/ 5月

存在論日記:2007年5月

目次

チューリングマシン的存在論

私は先日、 mixi内にある「スコラ学」というコミュニティーにおいて 次のような発言をした。

私は最近、次のような考え方が気に入っています (あくまで「気に入っている」だけで、 「信じている」わけではありません)。 「世界というのは一台のチューリングマシンであり、 宇宙におけるさまざまな現象は、 それの動作に伴って生ずる「夢」のようなものである。 そのチューリングマシンのテープの上には 無数の名辞から成る列が書かれているが、 それらの名辞が指示しているものは、 個物であろうと普遍であろうと実在しているわけではない」

小説家というのは、 彼が書く小説の中の世界においては神のごとき存在である。 したがって、神というのは小説家に似ていると考えることができる。 しかし、チューリングマシンとしての世界を創造する神は、 小説家よりもプログラマーに似ている。 なぜなら、小説家が小説を書くというのは、 すでに発生したものとして事象を語ることであるのに対して、 プログラマーがプログラムを書くというのは、 予定調和的に発生するであろうものとして 事象を語ることだからである。

神は、チューリングマシンとしての世界が見る夢において、 プログラマーという存在者(もちろん 実在する存在者ではない)に対して、他の存在者とは異なる、 「メタ存在者」と呼ぶべき地位を与えるかもしれない。

そう言えば、 「マトリックス」の主人公である ネオ(トーマス・アンダーソン)は、 職業がプログラマーという設定だった。 ウォシャウスキー兄弟は、 この設定に対してどのような意味を与えているのだろうか。

A級戦犯

先日、次のような記事が新聞に載っていた。

日本遺族会は8日、 靖国神社のA級戦犯の分祀問題などを含めて話し合っていく 勉強会の初会合を都内で開いた。[1]

A級戦犯の分祀について 日本遺族会がどのような判断を示すかというのは、 きわめて興味深い問題である。 是か非かという結論がいずれであるとしても、 彼らがその結論に至った議論の過程を検証することによって、 彼らにとっての靖国神社の位置というものが 明らかになるのではないかと期待することができる。

国家神道の立場で言えば、いわゆる「A級戦犯」は、 太平洋戦争という聖戦を遂行するために 臣民を指揮した軍人や指導者である。 たとえ戦勝国から「戦犯」という汚名を着せられて 処刑されたのだとしても、 国体のために命を捧げたという点で、 他の英霊たちとのあいだに差異は存在しない。 それゆえに、 A級戦犯もまた 靖国神社に祀られていなければならないのである。

ちなみに私自身も、A級戦犯の分祀には反対である。 ただし、私がA級戦犯の分祀に反対する理由は、 私自身が国家神道の立場に立っているからではない。

京都市下京区観喜寺町に、 梅小路蒸気機関車館という施設がある。 この施設の最大の存在意義は、 さまざまな種類の蒸気機関車を動態保存しているという点にある。 私は、それと同様に、靖国神社という施設の最大の存在意義も、 国家神道という宗教を動態保存している という点にあるのではないかと考えている。

国家神道は、後世の日本人にとって貴重な反面教師である。 それゆえに、それを動態保存する意義はきわめて大きい。 後世の日本人は、 閣僚が靖国神社に参拝したというような報道に接するたびに、 国家が国民を思想的にコントロールしようとした歴史を 想起することになるはずである。

私がA級戦犯の分祀に反対する理由は、 もしも靖国神社がA級戦犯を分祀したとするならば、 その施設による国家神道の動態保存に瑕疵が生ずることになる、 ということを危惧しているからである。

[1] 「日本遺族会/分祀を議論」、『朝日新聞』、 2007年5月9日。

宗教の深層構造

今年の2月ごろ、 mixi内にある「カトリック」というコミュニティーにおいて、 あんとに庵さんから、 仏教の三宝(仏法僧)とキリスト教の三位一体(父と子と聖霊)とは 同型であるという趣旨の指摘をいただいた。

その書き込みに対するレスの中で、私は、 三宝と三位一体との対応関係について、それほど深く考えず、

仏が父、法が聖霊、僧が子ですね。

と書いた。すると、あんとに庵さんから、

仏が子で、法が父で、僧が聖霊になると思うです。 僧>エクレシアね。

という反論が返ってきた。 確かに、僧と聖霊には、 いずれも霊的存在者と肉体的存在者との媒介となる存在者である という点で類似性がある。 それゆえに、 「僧が聖霊」については私も同意せざるを得ない。 しかし、「仏が子で、法が父」という対応関係には、 まだ疑問が残る。 むしろ、「仏が父で、法が子」なのではないだろうか。

三位一体における父は、森羅万象の根源となる存在者であり、 仏教において大日如来によって象徴されているものに近い と思われる。 それゆえに、「仏が父」である。

また、『ヨハネによる福音書』第一章において、 福音記者ヨハネは、キリストというのはロゴスであり、 万物はロゴスによって造られた、と述べている。 彼が「ロゴス」と呼んでいるものは、 宇宙を支配する法則のことなのではないだろうか。 もしもそうだとすれば、それは、 仏教における「法」に近い存在者であると考えることができる。 それゆえに、「法が子」である。

人類は実にさまざまな言語を持っており、 その多様性はきわめて豊穣である。 しかし、チョムスキーは、言語の多様性は表面的なものにすぎず、 その深層構造はすべての言語に共通であると考えた。 私は、言語と同様に宗教というものも、 見かけ上の多様性の下に普遍的な深層構造があるのではないか と思う。

三宝と三位一体との同型性は、 少なくとも仏教とキリスト教に関しては、 それらが同一の深層構造を共有しているということを 示唆しているように思われる。

存在論日記2007年/ 5月
Last modified: Monday, 28 May 2007
Copyright (C) 2007 Daikoku Manabu