存在論日記2007年/ 8月

存在論日記:2007年8月

目次

天使と妖怪

稲垣良典さんは、『天使論序説』第一章の冒頭で、 現代の人間が天使に向けている学問的な関心の低さに対して 憂慮を表明している。

稲垣さんによれば、天使についての研究は、 進化論を補完するものである。 すなわち、生物はまだ進化の途上にあり、 将来における通過点の一つが天使なのである。

われわれが進化について本当に真剣に考えているのであれば、 目を過去あるいは後方だけに向けるのは不十分であって、 これからの進化がめざす未来あるいは前方をできるかぎり 見きわめようとする試みが要求されるであろう。[1]

ちなみに、 このような進化論的ビジョンを持っている人間は 稲垣さんのみではない。 たとえば、小松左京さんも、 「神への長い道」[2]の中で同様のビジョンを語っている[3]。

人間と天使との最大の相違点は、 個々の人間が普遍的な存在者ではないのに対して、個々の天使は、 普遍であってかつ個物であるような存在者である、 という点にある。

普遍であってかつ個物であるような存在者は、 天使だけではない。 妖怪の多くもそうである。 たとえば、雪女と呼ばれる存在者は、一体の普遍であると同時に、 一体の個物でもある。 すなわち、雪女は普遍として一体のみが存在するのであって、 Aさん、 Bさんという名前によって識別することのできる 複数の雪女が存在するわけではない。

水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」に登場するねずみ男は、 妖怪ではなく「半妖怪」であるとされている。 その理由は、おそらく、 ねずみ男においては 普遍と個物とが一致していないからであると思われる。 すなわち、ねずみ男は一体のみの存在者ではない。 彼らは「ねずみ男族」と呼ばれる一族を形成しており、 鬼太郎の友人であるねずみ男は、 「ペケペケ」という名前によって識別される、 ねずみ男族の一員なのである[4]。

生物の進化がこれから進んでいく方向は、 普遍と個物とが一致する方向であろうと考えることができる。 一神教の文化圏においては、 天使が進化の通過点であるというのは 自然な考え方なのかもしれないが、 天使というものに対する認識が希薄な日本人にとっては、 進化の通過点は、 天使よりもむしろ妖怪であると考えるほうが 自然なのではないだろうか。

[1] 稲垣良典、『天使論序説』、講談社学術文庫、 講談社、1996、p.35。
[2] 小松左京、「神への長い道」、 『神への長い道』、角川文庫、4091、角川書店、1978、 pp. 126-220。
[3] 「新世紀エヴァンゲリオン」においても、 その背後には同様の進化論的ビジョンがあるのかもしれないが、 明確には語られていない。
[4] 水木しげる、「鬼太郎地獄編」、 『鬼太郎の地獄めぐり』、「水木しげるコレクション」、I、 角川文庫、9785、角川書店、1995、pp. 217-399。

音楽の境界線

西宮市大谷記念美術館で、 「藤本由紀夫展[哲学的玩具]」を見た[1]。

人間による創造物を芸術とそうでないものに区分する境界線は、 それほど明確なものではない。 言い換えれば、芸術と非芸術との間には、 どちらとも解釈できる無数の創造物が存在し、 一方から他方への変化は連続的である。

しかし、音楽というジャンルにおいては、 音楽と非音楽との間には二重の境界線が存在し、それらの中間は、 ほとんど作品が存在しない空白の領域となっている。 外側の境界線は、 何らかの創作的な意図が反映されている音であるか否か という条件による区分であり、 内側の境界線は、旋律、リズム、 和声という三要素のうちの少なくとも一つを持つ音か否か という条件による区分である。

藤本さんの一群の作品は、 音楽を囲む外側の境界線付近に位置付けることができる。 それらは、皿の上でオルゴールが転げ回る音や、 円筒の中で角砂糖が転がる音や、 割れたタイルの上を人間が歩く音などである。 それらの音は、 旋律やリズムや和声を持っているとは言い難いものである。 そして、 それらの音に藤本さんの創作的な意図が反映されているか否かは 明確ではない。 それらの作品は、 音楽と非音楽との間に存在する溝を埋めることによって、 音楽の境界線の不明確さを、 芸術の他のジャンルと同じレベルにまで 引き上げようとする試みである、 と解釈することができる。

[1] 「見て、 そして聴いた」と書くべきだろうか。

出会い

中村薫さんの法話に関するメモ。

日時は2007年8月4日(土)午前7時ごろ、 場所は真宗本廟(東本願寺)阿弥陀堂。

中村さんは次のように語った。 「私の幼友達である大河内祥晴さんは、13年前に、 中学2年生だった息子の清輝さんを、 いじめを苦にした自殺で亡くした。 あるとき、私は彼に、 「息子さんを自殺に追い込んだ人たちのことが憎くないのか」 と尋ねた。 すると彼は次のように答えた。 「憎い。 しかし、憎しみでは人と出会えない」」

大河内さんは、「出会い」という言葉に、 どのような意味を込めているのだろうか。 私にはまだ実感することができないが、彼はその言葉を、 人間は何のために生きているのかという問題と きわめて深いところで関連する 重要なキーワードとして使っているように思われる。

「出会い」という言葉をキーワードとして使っているのは 大河内さんだけではない。 マタイス・アンセルモさんも、 「カトリック大学の使命と若者の未来」という講演[1]の中で、 出会いというものの重要性を強調していた。

マタイスさんは、 「出会いは人間を人間たらしめるものである」と述べ、さらに、 「人に触れることは神に触れることである」 というマザー・テレサの言葉を引用した。

大河内さんやマタイスさんがキーワードとして使っている 「出会い」は、 「知り合いになること」という 表面的な出会いを意味しているのではない。 それは、本質に先立つ実存としての自己が、 実存としての他者を発見するプロセスであり、それこそが、 不条理の中に意味を構築するための方法なのかもしれない。

[1] http://sonzai.org/2007/03.htm#dignity
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Last modified: Wednesday, 29 August 2007
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