存在論日記2007年/ 9月

存在論日記:2007年9月

目次

ボランティア

先日、 世界陸上大阪大会でボランティアをしているという人から届いた メールが、 ラジオで紹介されていた。

メールの内容は、世界陸上の主催者に対する不満だった。 「彼らは、 ボランティアを「していただく」という意識ではなく 「やらせてやる」という意識を根底に持っている」 とその人は書いていた。

実は、私も、 ささやかながらボランティアとして世界陸上に協力した 人間の一人である[1]。 しかし、世界陸上の主催者に関して私が受けた印象は、 ラジオ局にメールを送った人とは逆である。 すなわち、主催者はボランティアに対して、 「やらせてやる」という意識ではなく 「していただく」という意識を根底に持っているのではないかと 私には思われた。

世界陸上の主催者が募集したボランティアというのは、 組織の歯車として、 マニュアル化された仕事をするだけの存在である。 ボランティア自身の発案によって仕事を創り出す余地は ほとんどない。 主催者は、ボランティアというものの本質を理解しておらず、 それを無給のアルバイトのようなものだと 認識しているように思われる[2]。 「していただく」という意識を根底に持っているという印象を 私に与えた原因はそこにある。

ボランティアというのは、自分にできる最善のことをしたい、 という欲求を満足させることを目的として行動する存在である。 「自分にできる最善のこと」というのは 自分にしか分からないものなので、 ボランティアの仕事は、 ボランティア自身が発案することを原則とする。 マニュアル化された仕事で満足することのできる ボランティアというのは、 かなり特殊な存在である。

ラジオ局にメールを送った人は、 イベントの主催者はボランティアに対して、 「していただく」という意識を持っていてほしいと 思っているわけであるが、 私は逆に、 「やらせてやる」という意識を持っていてほしいと思っている。 なぜなら、ボランティアは、 主催者以外の人々からは感謝されるかもしれないが、 主催者にとっては迷惑になるかもしれない存在だからである。 ボランティアが主催者に期待しなければならないことは、 自分たちが発案した善意の行動を大目に見てもらうこと、すなわち、 「やらせてやる」という意識のもとに扱ってもらうことである。

イベントの主催者の仕事は、イベントを開催することである。 しかし、ボランティアが協力することのできる余地は、 イベントの開催に留まらず、その周囲に大きく広がっている。 つまり、ボランティアとしてイベントに協力する上で、 主催者の組織の中に組み込まれることは、 必要条件ではないのである。 たとえば、海外から来た人々を史跡などに案内したり、 イベントを側面から支援するウェブサイトを運営したりするなど、 組織の外側にいながらにして可能な仕事は、 無数にあるように思われる。

[1] 長居球技場に開設されたメインメディアセンター(MMC)で、 パソコンにソフトをインストールするという作業を 手伝わせていただいた。
[2] 弁当とミネラルウォーターが支給されたので、 厳密に言えば「無給」ではない。

アニミズム

大阪市立美術館で、 「第66回創元展」という絵画の展覧会を見た。

ひときわ印象に残ったのは、 宍野勝文さんの「杜のまつり」という作品である。 その絵には、多数の鳥と二匹の魚が、 なかば抽象化されて描かれている。 その作品が印象に残った理由の一つは、 人間が持っているアニミスティックな感覚を呼び覚ます力を、 その絵が持っているように思われたからである。

芸術家が作品を作る理由は、 芸術家ごとにさまざまであると思われる。 しかし、意識のレベルではさまざまであるとしても、 無意識のレベルでは個人差は薄れ、 アニミスティックな衝動が 創作の原動力となっているのではないだろうか[1]。 そして、その衝動が表現内容として昇華した場合、 鑑賞者が持っているアニミスティックな感覚を呼び覚ます作品が 創造されることになるのではないかと思われる。

ここから先は余談である。

一般に、 アニミズムと一神教は対極的な位置にあると考えられている。 しかし、私には、 それらは本質的には同じものであるように思われる。

アニミズムというのは、 世界の任意の一部分に神(「精霊」と呼ばれることが多い)が 存在しているという信仰のことである。 アニミズムは、 神が無数に存在しているということを 含意しているように見えるかもしれないが、 それは誤りである。 なぜなら、「世界の任意の一部分」は、 連続的に他の部分とつながっており、そこに存在している神もまた、 他の部分の神と連続的につながっているからである。 結局のところ、アニミズムにおける神というのは、 世界全体にただ一柱だけ存在している神の 任意の一部分のことなのである。

[1] 小説家は、 創作の原動力としてしばしば言霊に言及することがある。 このことも、 芸術とアニミズムとの関連を裏付けるものと 考えてよいのかもしれない。

マシン語は遠きにありて思ふもの

shi3zさんは、 「マシン語を知らない子ども達」[1]というブログエントリーの中で 次のように述べている。

プログラムが書ける、という状態は「マシン語が書ける」という 状態の延長線上にあるべきで、マシン語を理解していない ということはマシンを理解していない、つまりプログラムを 理解していないのとほぼ同じだと思います。

高級言語のプログラマーにとってマシン語の知識は必要か否か、 というのは大昔から続いている議論である。 shi3zさんに対する反対意見としては、 たとえば小飼弾さんの「マシン語読みの言語知らず」[2]が 的を射ているように思われる。

私は、どちらかと言えば、 高級言語のプログラマーにマシン語の知識は必要ではない という意見に賛成である。 マシン語の知識が有益であるということは認めるに吝かではないが、 有益さで比べるならば、 自分が使っている言語とは異なるパラダイムにもとづく 高級言語の知識のほうが、 マシン語の知識よりも有益であると思う。

そもそも、shi3zさんは、 「知っていれば有益である」ということと 「知っている必要がある」ということを 混同しているのではないだろうか。 この種の混同は、マシン語をめぐる議論のみならず、 さまざまな分野においてしばしば見聞されるものである。 たとえば、「匿名の僧」さんは、 あんとに庵さんの「再び信仰について」[3]という ブログエントリーに対するコメントの中で、 学問としての神学の議論に参加するためには、ヘブライ語、 ギリシア語、ラテン語、英語、ドイツ語、フランス語、聖書学、 教会教義学史の知識が必要であると述べている。

文科系の学問においては、 関連する知識は多ければ多いほど有益である。 したがって、神学の議論においても、 ヘブライ語やギリシア語などの知識は、 ないよりはあるに越したことはない。 しかし、 ヘブライ語やギリシア語などの知識が 「必要である」という主張は、 おそらく間違っていると私は思う。

神学の議論のために必要であると 「匿名の僧」さんが述べている知識は、 明らかに聖書の知識に偏っている。 しかし、 キリスト教における神について議論する上で有益となる知識は、 聖書の知識のみではない。 なぜなら、キリスト教における神は、 世界を創造した神だからである。 世界を創造した神が人間に対して啓示を与えたと仮定するならば、 その啓示は、 ユダヤ人のみならず地球上のあらゆる民族に対して 平等に与えられたと考えるのが自然である。 したがって、世界を創造した神が人間に与えた啓示は、おそらく、 ヴェーダ、バガヴァッド・ギーター、アヴェスタ、クルアーン、 法句経、老子、論語、古事記などにも含まれていると思われる。

神学の議論は、 さまざまな知識を持つ人間が集まって さまざまな角度から意見を闘わせるのでなければ、 実りのあるものとはならない。 「匿名の僧」さんが必要であると主張する知識を持つ参加者は、 一人で十分である。 彼以外の参加者は、聖書の知識よりもむしろ、 それ以外の聖典の知識を持っていることが望ましい。

[1] http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20070911/1189493767
[2] http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50910559.html
[3] http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070823/1187840088
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Last modified: Thursday, 27 September 2007
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