存在論日記2007年/ 10月

存在論日記:2007年10月

目次

電車と携帯電話

先日、学校から帰る途中、 環状線の電車の中で小さな事件に遭遇した。 突然、「いつまで喋っとんじゃ、 電車の中で」 というドスの利いた声が車内に響き渡ったのである。

その声の矛先にいたのは、 携帯電話で誰かと通話をしていたサラリーマン風の男性だった。 ドスの利いた声というものの効果は絶大である。 その人は、平身低頭しながら、しかし携帯電話は耳に当てたまま、 声とは反対の方向へ滑るように逃げて行った。 声の主は私の視界には入っていなかったが、 ほとぼりが冷めたのちに恐る恐る首をめぐらしてみると、案の定、 そこにいたのは、 あまりお近づきになりたくないタイプの人だった。

電車の中で携帯電話を使って 誰かと通話している人間というのは、 その周囲にいる人々に不快感を与える。 これは、よく考えてみると不思議な現象である。 電車の乗客同志の会話は不快ではないのに対して、 携帯電話による通話が不快なのは、いったいなぜなのだろうか。

斉藤環さん[1]は、 電車の中で携帯電話を使って通話している人間が 周囲の人々に不快感を与える理由について、 ジャック・ラカンの理論を援用することによって説明している。 斉藤さんによれば、携帯電話を使って通話している人間というのは、 独り言をつぶやいている精神病患者と同様に、 自分にとってのみ存在している世界と対話をしているように 見えるのだそうである。

だから、たとえ精神病じゃなくても、独り言を呟き続ける人は、 どこか僕たちに異様な不快感を与える。同じ世界にいるはずの人が、 別の世界を背負って歩いているようなものだからね。[2]

私は、 携帯電話で通話している人間に対する不快感の理由は 人によってさまざまであって、 理由を一つに絞ることはできないと思う。 おそらく、携帯電話で通話している人間に対して、 精神病患者の独り言に対して感じる不快感とは異質のものを 感じている人々も少なからず存在しているに違いない。 たとえば、 電車の中でいちゃいちゃしているカップルに対して感じる不快感と 同質のものを感じている人も存在しているのではないだろうか。

私たちは、 映画館のスクリーンの中でいちゃいちゃしているカップルに対して 不快感を感じることはない。 しかし、 電車の中でいちゃいちゃしているカップルに対しては 不快感を感じる。 その理由は、後者のカップルの場合、 自分たちの仲のよさを人々に見せつけることによって 優越感を味わいたいという目的のもとに いちゃいちゃしているからである。 つまり、この場合の不快感は、 カップルが自分たちを満足させるための道具として 周囲の人々を利用しているという構造によって 発生するものなのである。

電車の中で携帯電話を使うことはマナーに反する行動であるが、 マナーに違反することを厭わずに通話している人間というのは、 たとえ通話そのものが第一の目的だとしても、 優越感を味わいたいという目的を 心のどこかに所持しているように思われる。 その優越感というのは、 携帯電話で自分とつながっていたいと思っている人間が 自分には存在しているということを 人々に誇示することによって得られるものである。 そして、その結果として、 いちゃいちゃしているカップルが作り出す構造と同じものが 電車の中に出現することになるのである。

[1] http://homepage3.nifty.com/tamakis/
[2] 斉藤環、『生き延びるためのラカン』、 バジリコ、2006、p. 14。

日本語絵文字化計画

日本語という言語は、これまでに、漢字、平仮名、片仮名、 ラテン文字など、さまざまな文字体系を貪欲に摂取し、 それぞれの文字体系に対して、 それにふさわしい役割を与えてきた。

このプロセスは、現在もなお進行中である。 日本語は現在、絵文字という新しい文字体系を吸収する途上にある。 近い将来、絵文字は、 日本語における必要不可欠な文字体系の一つとなるであろう。 さらに遠い未来においては、 絵文字が日本語における中心的な文字体系となるかもしれない。 しかし、日本語の文字として絵文字を定着させるためには、 解決しなければならない課題がいくつかある。

第一の課題は、 電子機器が絵文字を取り扱う方法の標準化である。 現状では、絵文字とコードとの対応は、 ネットワーク上のサービスを提供する業者のそれぞれが 勝手に決めているため、 互換性がきわめて乏しい状態にある。 公的な機関による絵文字コードの管理を 早急に開始することが望まれる。

第二の課題は、絵文字の意味論と構文論を整備することである。 現状では、絵文字は主として間投詞として利用されているが、 名詞や動詞や形容詞として絵文字を利用するためには、 個々の文字についての意味論と、 文の中でそれを使う上での構文論を整備する必要がある。 また、 有限個の絵文字を使って無限の事物を表現することを 可能にするために、 複数の絵文字の組み合わせによって意味を創出するための 造語規則を整備することも必要である。

第三の課題は、話し言葉との連携である。 絵文字を含む文章を音声で読み上げることと、聞き取った発言を、 絵文字を含む日本語の文字を使って 書き記すことができるようにしなければならない。 絵文字とその読み方とを 可能な限り一対一で対応させることの必要性は言うまでもないが、 それに加えて、 絵文字で表記するべきか否かを 耳で聞いて識別することができるような指標を考案することも 必要である。

第四の課題は、 絵文字を蔑視しているアンチ絵文字派の人々に対して 絵文字の素晴らしさを啓発することである。 これは、 日本語の文字として絵文字を定着させる上で最も重要な課題である。 しかしそれと同時に、 解決することが最も困難な課題であるとも言える。

DQN文化圏

「子供の名前@あー勘違い・子供がカワイソ」[1] という2ちゃんねるのスレッドが隆盛を極めているという現象は、 何を意味しているのだろうか。

この現象には二つの側面がある。 一つは「DQNネーム」と呼ばれる属性を持つ名前を与えられた子供が 増加しつつあるという側面であり、 もう一つは、 2ちゃんねらーたちがDQNネームに対して 過剰とも言える反応を示しているという側面である。

子供の名前は、その子供を識別するための記号であると同時に、 その親が帰属している文化圏を識別するための記号でもある。 なぜなら、親には、 自分が帰属している文化圏に自分の子供を引き留めておきたいという 心理が働くために、 その文化圏の規範に沿った名前を 子供に与える傾向があるからである。 したがって、 自分の子供にDQNネームを与えるDQN親が 増加しつつあるという現象は、 DQNたちが、 自分たちの文化圏に帰属しているというアイデンティティーに 目覚めつつあるということを意味していると 推測することができる。

DQNたちが帰属意識を持つ文化圏を、 「DQN文化圏」と呼ぶことにしよう。 DQNネームに対する過剰とも言える2ちゃんねらーたちの反応は、 自分たちの文化圏がDQN文化圏に侵食されつつあることに対する 恐怖を背景としている。 しかし、DQN文化圏に対しては、それを排斥するのではなく、 自分たちとは異なる文化圏として敬意を表するべきである。

規範というものの多くは普遍的なものではなく、 文化圏ごとに固有の規範が存在するというのは自然なことである。 自分たちが帰属している文化圏に固有の規範を 他の文化圏に帰属している人々に適用するというのは、 無意味なことである。

「名前の表記と読み方との間には関連性がなければならない」 とか、 「男は男らしい名前、女は女らしい名前でなければならない」とか、 「不吉な意味を持つ漢字を名前に使ってはならない」 というような規範は、 非DQN文化圏に固有のものである。 そのような規範にもとづいて、 「読めない」とか「性別を誤認させる」とか「不吉だ」などと言って DQNネームを非難するのは、 正しいこととは言えない。

[1] http://dqname.jp/index.php?md=2ch
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Last modified: Monday, 29 October 2007
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