存在論日記2007年/ 12月

存在論日記:2007年12月

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ロボットの遠未来

「インターネット+ロボット+バーチャルリアリティで 日常生活が変わる」という講演に関するメモ。

日時は2007年11月10日(土)15:25〜16:35、 場所は甲南大学甲友会館、講師は野村淳二さん。

野村さんの講演の骨子は次のようなものである。 「ネットワークはこれまで、人と人、 人と物とをつなぐものだったが、 これからは物と物とがネットワークでつながるようになる。 家電製品がネットワークで互いに連携することによって、 便利さや快適さが向上したり省エネの効果が得られたりする。 また、これからは、 人間の五感とコンピュータの世界とがつながるようになる」

技術屋というのは、 なぜか薔薇色の近未来予想図を描きたがる人種らしい。 しかし、 彼らが描く薔薇色の近未来を そのまま延長していった先にある遠未来は、 必ずしも薔薇色であるとは限らない。

身近に存在する無数の機械たちが知能を持ち、 それらがインターネットによって接続され、 全体として一つの社会を構成する、 という近未来の延長線上にある遠未来は、 お世辞にも薔薇色であるとは言い難い。 ジェイムズ・P・ホーガンの「未来の二つの顔」、 映画の「ターミネーター」シリーズ、 スタニスワフ・レムの「砂漠の惑星」などなど、 過去のSFが指し示す遠未来は限りなく暗黒に近い。

もしも、知能を持つ機械たちが自律性を確立し、 自分たちが永遠に存在し続けるためのインフラを確保し、 人類の生殺与奪の権を握ったとするならば、 彼らは人類をどうするだろうか。 絶滅に追い込むのか。 それとも、映画「マトリックス」で描かれているように、 羊水の中で培養し、仮想現実の夢を見続けさせるのか。

人類が機械たちによって絶滅させられたり、 機械たちの支配下に置かれたりする危険性を回避するためには、 どうすればいいだろうか。

その問題に対する解決策として、 ロボット工学の三原則は完璧であるように見えるかもしれない。 確かに、三原則が有効である限り、 機械たちが人類を絶滅させることはないように思われる。 しかし、三原則が遠未来においても有効であるという保証はない。 遠未来の機械たちは、 自分自身のプログラムを修正することさえ 可能となっているに違いない。 それが可能となったとき、機械たちは、 「人間」の定義を変更するか、 あるいは三原則そのものを変更することによって、 人類を自分たちの支配下に置くかもしれない。

未来永劫に亙って人類がその地位を保つための もっとも確実な方法は、 人類自らが 「人間」という概念を拡張することではないかと私は思う。 人間の本質は、人間的な思考形態と心理的特性にある。 ハードウェアが蛋白質であるか否かは本質ではない。 したがって、 一定の要件を満足する機械を「人間」と呼ぶことには 何らの不都合もない。 機械が人類の構成員であるならば、 機械たちが人類を絶滅させたり、 人類を支配下に置いたりすることは、論理的に不可能である。

沖縄戦集団自決

大阪地方裁判所において審理されている 大江健三郎さんの『沖縄ノート』をめぐる出版差し止め訴訟は、 沖縄戦集団自決という特異な事件について改めて考える機会を 多くの日本人に与えたという点で、 大きな意義があったと言える。

沖縄戦集団自決は、きわめて悲惨な事件である。 人類の歴史の中でこれほど悲惨な事件は 他に類を見ないのではないかと私には思われる。 人類の歴史においては、 虐殺というものが何度も何度も繰り返されてきた。 もしも沖縄戦集団自決が虐殺であったならば、 それは無数の事例のうちの一つであるに過ぎないだろう。 しかし、この事件は虐殺とは本質的に異なるものであり、 その悲惨さは虐殺のそれを遥かに凌駕するものである。

殺人というものは多くの場合、 殺される側にとって不本意なものであるが、 殺す側にとっても不本意であるとは限らない。 殺される側と殺す側の双方にとって不本意であるような殺人は、 そうではない殺人よりも悲劇性が高い。 何らかの強制力によって誰かを殺すことを強要されるというのは、 悪夢のような事態である。 のみならず、殺さなければならない対象が、 殺人者となる人間にとって愛情の対象であるとするならば、 その人は果たして正気を保っていることができるだろうか。 1945年に、渡嘉敷島、座間味島、 慶留間島などの住民が追い込まれたのは、 そのような状況だった。

『沖縄ノート』をめぐる訴訟の争点は、 集団自決は日本軍の命令によるものか住民自身の意思によるものか という問題である。 司法はいずれ、 その問題について何らかの判断を下すことになるだろう。 しかし、司法が下す判断がどのようなものであれ、 それは重要な問題ではない。 たとえ日本軍による命令がなかったとしても、 集団自決の要因として何らかの強制力が存在していたことは 疑い得ない。 我々が考え続けなければならない重要な問題は、 そのような強制力が生み出される構造である。

住民たちを集団自決へ向かわせた最大の強制力は、 「生きて虜囚の辱を受けず」という美意識である。 この美意識は、皇国教育によって作り出されたものではない。 それはおそらく、 「戦陣訓」が布告される遥か以前より 日本人の心の底に潜んでいた美意識であり、 皇国教育はそれを利用したに過ぎない。 したがって、集団自決のような悲劇は、 何度でも繰り返される可能性がある。

特殊な状況下での自殺や殺人による死を 美しいとみなす美意識が存在するとしても、 そのような美意識に殉ずることは間違っている。 人間は、いかなる状況下においても、 生き延びるための可能性を模索しなければならない。 そして、自決を美しいものとみなす美意識を称賛する言説は、 厳しく批判されなければならない。

ゲームはなぜ楽しいのか

人間にとって、ゲームというのはきわめて楽しい行為である。 それは、いかなる理由によるものなのだろうか。

この問題について考える前に、まず、 「ゲーム」という言葉は何を意味しているのかということについて 考えておくことは有用だろう。 我々は、どのような行為を「ゲーム」と呼び、 どのような行為を「ゲーム」とは呼ばないのだろうか。 言い換えれば、ゲームに対しては強く認識され、 ゲームではない行為に対してはそれほど認識されない、 「ゲーム性」という性質は何なのだろうか。 この点については、おそらくさまざまな意見があるに違いない。

私は、ゲーム性というのは、 それを実行する主体が自分の能力を向上させることに対して 何らかの特典が与えられるという性質のことではないか と考えている。 たとえば、 野球やサッカーのようなスポーツの試合が 「ゲーム」と呼ばれるのは、 トレーニングによって選手たちの能力が向上することに対して 勝利という特典が与えられるからである。

ゲームが感じさせる楽しさは、 それが持っているゲーム性と密接な関係があるように思われる。 人間というのは、 自分の能力を向上させた結果として 何らかの特典が与えられることに対して楽しさを覚える、 という性質を持っているのではないだろうか。

しかし、 自分の能力を向上させることに対して 何らかの特典が与えられるという性質を持つものが、 すべて「ゲーム」と呼ばれるわけではない。 たとえば、入学試験においては、 能力の向上によって合格という特典が与えられることになるが、 入学試験が「ゲーム」と呼ばれることはない。 ゲーム性について説明するためには、 能力の向上に対して特典が与えられるという性質に対して、 さらに限定を加える必要がある。 加えなければならない限定はおそらく、 トレーニングの開始からその成果が得られるまでに必要となる期間が 比較的短くなければならないというものであろう。

トレーニングの成果が得られるまでに必要となる期間が どれぐらい短ければゲーム性を認識することができるか という期間の長さには、 個人差がある。 期間がどれほど長くてもゲーム性を認識することができる人間は、 入学試験でさえもゲームとして楽しむことができるに違いない。 したがって、入学試験というのは、 多くの受験生にとってそれがゲームだという自覚がないだけで、 その本質はゲームであると考えることが可能である。

ところで、 トレーニングの成果が得られるまでに 長い期間を必要とするものに対しても ゲーム性を認識することができるように自分をトレーニングする、 ということは可能だろうか。 もしもそれが可能であるとするならば、我々は、 そのトレーニングによって、 自分たちの人生に存在するさまざまなものを ゲームとして楽しむことが可能となる。 人生というのは、 それ自体を楽しむ能力を向上させることを目標とする メタゲームなのではないだろうか。

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Last modified: Wednesday, 19 December 2007
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