存在論日記2008年1月/ 満足した豚か不満足なソクラテスか

満足した豚か不満足なソクラテスか

「カンナさん大成功です!」 という映画(監督:キム・ヨンファ、 原作:鈴木由美子)を観た。

この映画は、表面上は、 カンナ(キム・アジュン)という女性と サンジュン(チュ・ジンモ)という男性をめぐる 恋愛を描いたラブコメである。 しかし、 このラブコメの背後では カンナとアミ(ソ・ユン)をめぐる物語が展開されていて、 その物語は、かなりシリアスな問題を提起している。

カンナとアミは、ともに歌手である。 カンナは歌唱力には恵まれているが容姿には恵まれておらず、 アミはその逆である。 そこで、舞台にはアミが立って口パクで歌い、 実際に歌うのはカンナ、という分業体制が成立していた。 ところが、ゴーストシンガーのカンナが突如として失踪してしまう。 アミは、歌手を続けるために、 カンナの父親が入院している病院に張り込んで カンナが現われるのを待ち続ける。

そんなある日、 アミの新たなゴーストシンガーの候補として ジェニーという女性が現われる。 ジェニーは、歌唱力のみならず美貌までも兼ね備えていたため、 一躍、歌手として脚光を浴びる。 ところが、そのジェニーこそ、 全身美容整形で美女に変身したカンナだったのである。

カンナとアミをめぐる物語が提起しているのは、 人間の能力と幸福との関係という問題である。

人間の能力は有限であり、 保有する能力の種類は個々の人間ごとに千差万別である。 そして、「自分がしたいこと」と「自分が保有している能力」とは、 必ずしも一致するとは限らない。 それらが一致していない場合は、 カンナが失踪する以前のアミがそうしていたように 何らかの妥協策を採用するか、 あるいは能力を獲得するために努力するか、 あるいはしたいことをあきらめるしかない。

カンナの父親は、次の言葉をアミに授ける。

したいことができるのは神様だけだ。 できることをするのが人間だ。

おそらく、カンナの父親の意図としては、 「能力がないのに歌手を続けるよりも、 自分にできる仕事で満足するほうが幸福だ」という意味で、 この言葉をアミに授けたのだろうと思われる。

しかし、自分がしたいことを、 そのための能力が自分に備わっていないという理由で あきらめてしまうというのは、 人間にとって本当に幸福なことなのだろうか。 ジョン・スチュアート・ミルは、 カンナの父親とは対照的な幸福観を書き残している。 『功利主義』(1863年)*1の第二章で語られている次の言葉である。

満足した豚よりも不満足な人間であるほうがよく、 満足した愚者よりも不満足なソクラテスであるほうがよい。

カンナの父親の幸福観も捨て難いが、私は、 どちらかと言えばミルの幸福観に共感を覚える。 人間にとっての幸福は、 「したいけれども能力がないために不可能なこと」 を少しでも可能にするために努力を続けるということの中にある。 努力の結果として、それまで不可能だったことが可能になれば、 それに越したことはない。 しかし、たとえ進歩のないままで終焉を迎えたとしても、 それは決して不幸なことではない。

*1 http://www.sacred-texts.com/phi/mill/util.txt
存在論日記2008年1月/ 満足した豚か不満足なソクラテスか
Last modified: Thursday, 31 January 2008
Copyright (C) 2008 Daikoku Manabu