存在論日記2008年2月/ 暇つぶしとしての宗教

暇つぶしとしての宗教

橘川幸夫さん*1の説によれば、 21世紀における最大の産業テーマは「暇つぶし」なのだそうである。

1978年に、 僕はすべての原稿を投稿だけで構成した 『おしゃべりマガジン・ポンプ』という雑誌を創刊した。 その創刊号の編集後記で、 「21世紀は暇つぶしが最大の産業テーマになる」と書いた。 その確信は21世紀になった今、間違いないと思っている。*2

これからも科学技術が進歩し続けるとするならば、 それに伴って人間による労働力の需要が低下し、 余暇が増加するであろうという推測が成り立つことは、 ほとんど自明である。 「最大の」とまで言えるかどうかは疑問であるが、少なくとも、 余暇を過ごすために利用される産業の重要性は、今後、 著しく増大するに違いない。 しかし、 余暇を過ごすために利用されるという理由によって これから需要の増大が見込まれるのはどのような産業なのか という問題の解答は、 必ずしも自明ではない。

余暇を過ごすために利用される産業を 「余暇産業」と呼ぶことにしよう。 典型的な余暇産業は、ゲーム、カラオケ、スポーツ、 観光などのレジャー産業である。 余暇の増加とともにレジャー産業の需要が増大することは おそらく間違いない。 しかし、余暇産業の全体に占めるレジャー産業の比率は、 余暇の増加とともに低下するのではないかと思われる。 なぜなら、労働に対する余暇の比重が重くなるにつれて、 単に余暇を楽しく過ごすことができればそれでいいという意識は しだいに薄れ、 何らかの意味を伴う時間の使い方でなければ満足できなくなる と考えられるからである。

したがって、 余暇産業のうちでこれから重要な位置を占めるのは、 意味を伴う時間の使い方を提供する産業である。 そのような産業の例としては、 たとえば芸術や学術に関連する産業を挙げることができる。 なぜなら、余暇を有意義に過ごしたいと望む人々のうちの一定数は、 芸術や学術の方向へ足を向けると思われるからである。 しかし、そのような人々は、あくまで一定数に留まるだろう。 芸術や学術は、何らかの手応えが得られたときの喜びは大きいが、 そこに至るまでの道程は苦難の連続である。 したがって、 余暇を有意義に過ごしたいと望む人々の大多数が 芸術や学術に精励するとは考えにくい。

それでは、 余暇を有意義に過ごしたいけれども 芸術や学術のような苦難を伴うものは望まないという人々は、 どこへ向かうことになるのだろうか。 私は、宗教というのが、 そのような人々の需要に応えることのできる産業なのではないか と考えている。 なぜなら、宗教産業が提供するサービスの本質というのは、 人生に意味を与えることだからである。 宗教にかかわって過ごす時間は きわめて濃密な意味を伴うものであり、 多少の苦難が伴うとしても、それは受忍限度内である。

宗教の多くは、 「暇つぶし」という目的で利用されることを考慮に入れて 設計されているのではないかとさえ思われるほど、 時間を消費する性能が高い。 たとえば、多くの宗教が巡礼というサービスを提供しているが、 これは、 有り余る時間を有意義に消費したいと望む人々に最適の宗教商品 と言えるのではないだろうか*3。

*1 http://www.demeken.net/kit_profile.html
*2 橘川幸夫、 『暇つぶしの時代――さよなら競争社会』、平凡社、2003、 pp. 21-22。
*3 余談であるが、 サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼路を舞台にした コリーヌ・セロー監督の「サン・ジャックへの道」は、 お奨めの映画である。
存在論日記2008年2月/ 暇つぶしとしての宗教
Last modified: Thursday, 28 February 2008
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