存在論日記2008年2月/ 「神学する」と「神学を研究する」

「神学する」と「神学を研究する」

昨年の9月、 「マシン語は遠きにありて思ふもの」*1というエントリーの中で、 私は、 キリスト教の神学の議論においては ヘブライ語やギリシア語などの知識が必要であるという 「匿名の僧」さんの主張(あんとに庵さんの 「再び信仰について」*2に対するコメント)に対して、 次のような意見を述べた。

文科系の学問においては、 関連する知識は多ければ多いほど有益である。 したがって、神学の議論においても、 ヘブライ語やギリシア語などの知識は、 ないよりはあるに越したことはない。 しかし、 ヘブライ語やギリシア語などの知識が「必要である」という主張は、 おそらく間違っていると私は思う。

しかし、現在の私は、 「匿名の僧」さんの主張は間違っていないと考えている。 間違っていたのは私である。 その間違いを私に教えてくれたのは、 嶋本隆光さんが『シーア派イスラーム―神話と歴史―』という書物の 「おわりに」で述べている次の謝辞である。

中でも、宗教研究者が神学を研究することは一向に構わないが、 決して「神学して」はならない、 と絶えず警告していただいたK.Bolle先生には 格別の恩恵を受けた。*3

K.Bolle先生*4が認識しているとおり、 「神学する」ということと「神学を研究する」ということは 同じではない。 「神学する」というのは、特定の神学的な体系の中で、 用語の意味や命題の真偽などについて 考察あるいは議論することである。 それに対して、「神学を研究する」というのは、 神学的な体系を対象として、 その構造や特質や起源などについて研究することである。 「マシン語は遠きにありて思ふもの」の中で私が犯した誤りは、 神学するために必要な知識と、 神学を研究するために必要な知識とを混同したことである。

「匿名の僧」さんは、 キリスト教の神学という特定の体系の中で 神学するために必要な知識について述べているのであって、 キリスト教の神学を研究するために必要な知識について 述べているのではない。 そのように考えるならば、 ヘブライ語やギリシア語などの知識が必要であるという 「匿名の僧」さんの主張は、 首肯し得るものである。 神学するという行為において重要なことの一つは、 聖典を厳密に解釈することである。 そのためには、 聖典の記述に使われている言語についての知識が不可欠である。 キリスト教の聖典がそれによって書かれているところの主要な言語は ヘブライ語とギリシア語である。 したがって、キリスト教の神学の中で神学する上で、 それらの言語に精通していることは、必要不可欠な要件である。

キリスト教の神学の中で神学するのではなく、 キリスト教の神学を研究する場合、 ヘブライ語やギリシア語などの知識は、あるに越したことはないが、 絶対に不可欠なものであるとまでは言えない。 どちらかと言えば、それらの言語についての知識よりもむしろ、 キリスト教以外の宗教に関する知識のほうが 有益なのではないかと思われる。 なぜなら、特定の宗教の神学を研究するためには、 その神学を外側から客観的に観察することが必要だからである。 研究の対象となる神学を生み出した宗教以外の宗教についての知識が 豊富であればあるほど、 その神学を外側から客観的に観察することが 容易になるのではないだろうか。

*1 http://sonzai.org/2007/09.htm#machine
*2 http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070823/1187840088
*3 嶋本隆光、 『シーア派イスラーム―神話と歴史―』、学術選書、023、 京都大学学術出版会、2007、p. 214。
*4 おそらくKees W. Bolleさんのことであろうと思われる。
存在論日記2008年2月/ 「神学する」と「神学を研究する」
Last modified: Friday, 15 February 2008
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