存在論日記2008年3月/ 補助線としての神

補助線としての神

私は先日、「神学大全」の第一部第一問題*1を読了した。

第一部第一問題第一項を読了したとき、 私はこの日記に次のように記した。

玄奘三蔵の取経の旅にたとえるなら、 いまだ長安の城門から一歩も外へ出ていない段階と言える。*2

同じ比喩を使うならば、第一部第一問題を読了したことは、 長安の城門からようやく外へ出たことに相当する と言ってよいかもしれない。 しかしいずれにしても、 天竺がまだ遥か彼方であることに変わりはない。

トマスが第一部第一問題で論じているのは、聖なる教え、 すなわち神学とはいかなる学であるかという問題である。 その第二項において、トマスは、学を二種類に分類している。 自明の原理から出発するものと 上位の学によって明らかにされた原理から出発するものである。 そして彼は、神学は後者に分類されるものであり、 神学にとっての上位の学というのは、 神と至福の者たちの知であると述べている。

「神と至福の者たちの知」というのは、 神の存在を信じていない人間にとっては、 まったく意味のないものである。 では、それを原理とする神学という学も、 信仰のない人間にとっては 意味のないものということになるのだろうか。

私は、「神学大全」においてトマスが語りたかったことは、 人間をめぐる世界の秩序であって、それは、 たとえ神を消去したとしても そのまま成立し得るものなのではないかと思う。 つまり、彼の神学における神というのは、 幾何学の定理を証明する際に使われる 補助線のようなものなのではないかと考えているわけである。

西洋においては、 神学者のみならず多くの哲学者が神に言及している。 彼らのすべてとまでは言えないかもしれないが、 彼らのうちの何割かは、トマスの神学と同様、 神を補助線として使っているのかもしれない。

*1 http://theologia.jp/prima/001/
*2 http://sonzai.org/2006/11.htm#thomas
存在論日記2008年3月/ 補助線としての神
Last modified: Thursday, 13 March 2008
Copyright (C) 2008 Daikoku Manabu