存在論日記2008年3月/ 仮面としての宗教

仮面としての宗教

「三代神学館をめぐる秘話 ――クラーク記念館竣工に寄せて――」 という講演に関するメモ。

日時は3月8日(土)13:00〜14:30、 場所はクラーク・チャペル (同志社大学今出川キャンパス・クラーク記念館2階)、 講師は本井康博*1さん。

同志社大学には「神学館」と呼ばれる建物がある。 現在の神学館は三代目で、 過去に同じ名前で呼ばれた建物が二棟ある。 本井さんの講演は、 二代目の神学館だったクラーク記念館の歴史を つまびらかにするものである。 ちなみに、講演のサブタイトルに含まれている「竣工」は、 クラーク記念館の修復工事が竣工したことを意味している。

本井さんの講演の中で、私が最も面白いと思ったのは、 クラーク神学館(現在のクラーク記念館)の施工を請け負った 小嶋佐兵衛さんにまつわるエピソードである。 クラーク神学館の施工は、 入札に最低価格で応札した小嶋さんが落札したのであるが、 彼は浄土宗の信徒だったので、 施工を請け負うためにキリスト教に改宗しなければならず、 不平たらたら洗礼を受けたそうである。

小嶋さんが洗礼を受けるに際して 「不平たらたら」であったということが意味しているものは、 同志社大学が彼に要求した「改宗」が、 あくまで社会的な仮面としての宗教の変更であり、 内面的な信仰の変更にまで及ぶものではなかったということである。

人間というものは、 何らかの社会の中で生きているものである以上、 他者から自分の内面を隠し、 社会が要求する人格を他者に見せるための仮面をかぶる必要がある。 宗教についても例外ではない。 何らかの宗教の信者でなければならない という社会からの要請が強ければ強いほど、 その宗教は、内面的な信仰から分離し、 仮面としての機能を強化することになる。 この意味では、仮面としての宗教は、 宗教的な社会の中で人間が生きていくための必要悪である。 しかし私は、仮面としての宗教を、 必要悪と考えるべきものではなく、 むしろその価値を積極的に評価するべきものとして捉えたいと思う。

仮面としての宗教と内面的な信仰とは、 決して無関係に存在するわけではない。 おそらくそれらの間には絶えざる対話があるに違いない。 内面的な信仰は、その対話を通じて、より陰翳のあるものへ、 より重厚なものへと成長することができる。 もしもそれが正しいとするならば、 仮面としての宗教を持つことには 大きな意義があると言わざるを得ない。

*1 http://d-theo.jp/faculty/motoi/top.html
存在論日記2008年3月/ 仮面としての宗教
Last modified: Wednesday, 19 March 2008
Copyright (C) 2008 Daikoku Manabu