存在論日記2008年5月/ 死後の世界

死後の世界

宗教というものの定義は、人によって千差万別である。 その理由は、宗教を構成しているさまざまな要素のうちで、 どれが宗教の本質なのかという点をめぐって、 さまざまな見解があるからである。 それらの見解のうちの一つに、 死後についての説明が宗教の本質であるというものがある。 たとえば、加地伸行さんは次のように述べている。

人々は死を逃れるために医学にすがりつくが、生物である以上、 最終的には、いずれ死は避けられない。 とすれば、その恐しい死のあと、 死後について説明を求めざるをえない。 そのとき、死後について説明している、あるいは説明できるものは、 唯一、宗教だけである。 私は定義する、「宗教とは死ならびに死後の説明者である」と。*1

確かに、宗教の多くは、 人間は死んだのちにどうなるかということについて、 かなりの確信を込めて述べている。 死後についての説明が宗教の本質であるという見解は、 きわめて妥当なもののように思われる。

ところが、私が作った宗教である共存型一神教*2は、 人間は死んだのちにどうなるかということについて、 何も述べていない。 その理由は、「百聞は一見に如かず」だからである。 もしも死後の世界が存在するならば、人間は、 死んだのちに自分の目でその世界を確かめることができる。 したがって、死後の世界について、 生前から特定の見解に固執する必要はない。 これが、共存型一神教が死後について説明していない理由である。 しかし、私は決して、 生きている間に死後の世界について学習することが 無駄であると考えているわけではない。

死後の世界についての説明は、 それぞれの宗教ごとに異なっている。 しかし、死後の世界についての真実は、おそらく一つだけである。 したがって、死後の世界が存在するとしても、 自分が生前に信じていた宗教の教えと、 自分が実際に見聞するものとが一致する確率はきわめて小さい。 この確率は、信者の人口比率との相関性を持たない。 キリスト教徒の人口比率が高いからといって、 亡者の前に阿弥陀如来が現れる確率よりも キリストが現れる確率のほうが高いとは言えない。

だとするならば、死後の世界については、 自分の目の前に何が出現しようとも 臨機応変に対処することができるように、 可能な限り広範囲な知識を持っているほうがよい。 そうすれば、 自分の前に阿弥陀如来が現れたならば即座に 「南無阿弥陀仏」と唱えることができるし、 キリストが現れたならば「アーメン」、 スパゲッティ・モンスターが現れたならば「ラーメン」、 丹波哲郎が現れたならば「Gメン」と唱えることができる。

*1 加地伸行、『儒教とは何か』、中公新書、989、 中央公論新社、1990、p. 34。
*2 http://www.monotheism.jp/sutra/primer.htm
存在論日記2008年5月/ 死後の世界
Last modified: Thursday, 29 May 2008
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