存在論日記2008年7月/ 個人的宗教多様性

個人的宗教多様性

ある一人の人間がどれだけ多くの宗教を信仰しているか という多様性のことを、 その人の「個人的宗教多様性」と呼ぶことにする。

宗教は、それを信仰する人間に対して、 精神的あるいは心理的に望ましい効果を与える。 私は、宗教によって得られるそのような効果は、 個人的宗教多様性が豊かであればあるほど 大きなものになるのではないかと考えている。 もしもそれが正しいとするならば、個人的宗教多様性の豊かさは、 人間にとって望ましい価値であると評価されるべきものである。

アブラハム宗教の信者たちは、他の宗教の信者たちに比べて、 個人的宗教多様性が豊かではないように思われる。 しかし、個人的宗教多様性の豊かさは望ましいという価値観は、 アブラハム宗教の文化圏においてこそ 必要性が高いものであると言わざるを得ない。 なぜなら、この価値観は、 アブラハム宗教の文化圏で続いている宗派間抗争を 終息に向かわせる可能性を持っているからである。 ユダヤ教とイスラームの両方を信仰している人間、 キリスト教とイスラームの両方を信仰している人間、 スンナ派とシーア派の両方を信仰している人間、 そういった人々が増加していって、 純粋に一つの宗派のみを信仰している人間が絶滅危惧種になれば、 宗派間抗争はおのずから消滅するであろうと思われる。

しかし、アブラハム宗教の信者たちは、おそらく、 個人的宗教多様性の豊かさは望ましい という価値観を受け入れることに抵抗を覚えるに違いない。 その最大の理由は、彼らにとって「宗教を信仰する」ということは、 その宗教の全体を信仰するという意味だからである。 複数の宗教を信仰するためには、 それらの宗教のうちで互いに矛盾する教義について、 取捨選択が必要となる。 したがって、 「宗教というものはその全体を信仰しなければならない」 という固定観念にとらわれている限り、 個人的宗教多様性の豊かさは望ましい という価値観を受け入れることは困難である。

アブラハム宗教の信者たちとは対照的に、 大多数の日本人が持っている宗教観においては、 個人的宗教多様性の豊かさは、 望ましい価値として評価されるとまでは言えないにしても、 それに対する忌避感はほとんどないと言ってよい。 すなわち、日本においては、 一人の人間が同時に複数の宗教を信仰していたとしても、 それがとがめられる恐れはほとんどない。 そして実際に、 神道と仏教の両方を同時に信仰している日本人というのは、 きわめてありふれた存在である。

しかし、固定観念にとらわれているという点では、 日本人もやはりアブラハム宗教の信者たちと同様である。 日本人の多くは、 神道と仏教を同時に信仰するということには抵抗を感じないが、 アブラハム宗教とその他の宗教という組み合わせには 抵抗を感じるように思われる。 たとえば、アブラハム宗教を信仰している日本人が、 初詣に出かけたり自分の子供の七五三を祝ったりすれば、 その人は奇異の目で見られることになるのではないだろうか。 その理由はおそらく、日本人の多くが、 「アブラハム宗教の信者になるためには、 それ以外の宗教の信仰を捨てなければならない」 という固定観念を持っているからであろうと思われる。 しかし、それは謬見にすぎない。

アブラハム宗教をまだ信仰していない日本人は、 自分たちの個人的宗教多様性をさらに豊かなものにするために、 アブラハム宗教をもっと積極的に信仰すべきである。 確かに、アブラハム宗教の神は妬む神であり、 「あなたには、 わたしをおいてほかに神があってはならない」 (『出エジプト記』第20章第3節)と命じている。 しかし、宗教を信仰する場合、 すべての教義を無批判に受け入れる必要はない。 アブラハム宗教の神が「唯一神」であるのは、 あくまで自称にすぎない。 そのように考えれば、案外、アブラハム宗教というのも、 日本人にとって親しみやすい宗教となるのではないだろうか。

存在論日記2008年7月/ 個人的宗教多様性
Last modified: Thursday, 24 July 2008
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