存在論日記2008年7月/ 主観的確率

主観的確率

「神は存在する」というような超自然的な命題について、 「私はその命題が真であると信じている」と誰かが発言した場合、 その発言の中に含まれている「信じている」という言葉は、 いったいどのような意味で使われているのだろうか。

その場合の「信じている」の意味は、多くの場合、 「その命題が真であると感じられる 主観的確率(subjective probability)が50%と100%の間にある」 という意味であろうと思われる。 したがって、一口に「信じている」と言っても、 主観的確率が50%に近い場合もあれば、 100%に近い場合もあるだろう。 ちなみに、 真であると感じられる主観的確率が0%と50%の間にある場合は、 「私はその命題を否定した命題が真であると信じている」 と同じ意味であり、 何かを信じているという点では、 50%と100%の間にあると感じられる場合と同じことである。

主観的確率というものは状況に応じて変動するものである。 たとえば、 「神は存在する」という命題に対する主観的確率は、 大自然の荘厳な風景が眼前に広がっている というような特殊な状況のもとでは20%ほど上昇するかもしれず、 逆に、 苛酷な運命に直面したときには20%ほど下降するかもしれない。

宗教に対する信仰を持っているというのは、 何らかの超自然的な命題が真であると信じているということを 意味している。 したがって、主観的確率が50%に近い信仰もあれば、 100%に近い信仰もある。

日本人のうちで、アブラハム宗教(ユダヤ教、キリスト教、 イスラーム)を信仰している人は、人口の1%に満たない。 なぜアブラハム宗教が 日本人から敬遠される傾向にあるのかというのは、 おそらくさまざまな原因が複合した結果であろうが、 それらの原因のうちの一つは、 主観的確率が100%に近い信仰に対する警戒感ではないかと思われる。 日本的な文化圏の中では、 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言われるとおり、 100%という数字を聞くと、 そこには何か危険なものがあるのではないかという警戒感が働く。 それに対して、アブラハム宗教の文化圏では、 100%という数字に対する警戒感が乏しいため、 信仰においても100%を求める傾向が強いように思われる。

私は、2年前に、 イスラエルの政治や宗教などを話題とする講演会を聴講した*1。 そのときに印象に残ったのは、 エリ・コーヘン(Eli Cohen)さんというイスラエル人の講師が、 one hundred percentという言葉を 口癖のように何度も使っていたことである。 その言葉の使用頻度の高さに対して かすかな違和感を感じた日本人は、 おそらく私のみではあるまい。

アブラハム宗教の歴史は、 それに属する宗派間の抗争によって彩られている。 そしてそれらの宗派間の対立は、21世紀を迎えた現在もなお、 終息の気配すら見せようとしない。 アブラハム宗教において宗派間の抗争が絶えない最大の原因は、 その信者たちの文化圏においては、 あらゆるものに100%を求めようとする 傾向が強いためではないだろうか。

*1 http://sonzai.org/2006/07.htm#israel
存在論日記2008年7月/ 主観的確率
Last modified: Friday, 11 July 2008
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