存在論日記2008年8月/ 仏教的死刑廃止論

仏教的死刑廃止論

加藤久晴さんの法話に関するメモ。

場所は真宗本廟(東本願寺)阿弥陀堂、 日時は2008年8月3日(日)7:35〜7:58。

加藤さんは、 『歎異抄』が伝えている親鸞の言葉の中で 「まこと」というのは何を意味しているのかということについて、 次のように語った。 「親鸞が言う「まこと」というのは、 「人間の心の中にある正さ」という意味である。 かつて、 「らい予防法」や「北海道旧土人保護法」 のような法律があった時代には、 ハンセン病の患者やアイヌの人々を差別することは 正しいことだった。 しかし、それは「まこと」ではなく、 社会的な制度によって 「正しいと思い込まされていただけ」のものである」

加藤さんは、親鸞が言う「まこと」の一例として、 杉浦正健さん*1の次のような話を紹介した。 「杉浦さんは、法務大臣の在任中、 死刑執行の命令書に一回もハンコを押さなかった。 彼は真宗の門徒である。 おそらく、仏の教えを聞いて育ったので、 ハンコを押すことができなかったのだろう。 死刑を執行するというのは法律の上では正しいことであるが、 彼の内面では、それは正しいことではなかったのである」

この日記の「個人神」というエントリー*2で、私は、 神が存在する場所は人間の無意識の中であると述べた。 神が人間の無意識の中に存在しているのと同様に、仏もまた、 人間の無意識の中に存在する。 人間の外部に幻像として投影されることによって 信仰の対象となるものが神であるのに対して、 人間の無意識の内部に留まり、何が「まこと」であり、 何が「まこと」でないかを人間に教えるものが仏である。

仏は、あらゆる人間の無意識の中に存在する。 いかに凶悪な事件を起こした人間であろうと、その例外ではない。 凶悪な事件を起こした人間というのは、 少なくともその事件を起こした時点では、 自分の無意識の中に存在する仏の声を聞くまいと、 耳をふさいでいたのである。

すべての人間の無意識の中に仏が存在するとするならば、 凶悪な事件を起こした人々を殺してしまうことになる死刑制度は、 はたして正しいものと言えるだろうか。 そのような人々に対しては、 彼らの無意識の中に存在する仏の声に、 あらためて耳を傾けるための時間を与えることが 必要なのではないだろうか。

*1 http://www.seiken-s.jp/
*2 http://sonzai.org/2008/08/deity.htm
存在論日記2008年8月/ 仏教的死刑廃止論
Last modified: Friday, 22 August 2008
Copyright (C) 2008 Daikoku Manabu