存在論日記2008年8月/ 個人神

個人神

「個人神を通してみたメソポタミアの宗教」 という講演に関するメモ。

日時は2008年7月26日(土)14:00〜16:00、 場所は同志社大学今出川キャンパス神学館3階礼拝堂、 講師は中田一郎さん。

この講演のテーマは、個人神である。 中田さんは、個人神とは何かということについて、 次のように説明した。 「「個人神」(personal deity)というのは、 マリ(ユーフラテス川流域を支配していた マリ王国の首都)の遺跡から出土した粘土板文書の中に、 「私の神」、「あなたの神」、 「彼の神」という表現で登場する神々のことである。 マリ王国では、赤ちゃんが生まれたとき、 その赤ちゃんの個人神が誰なのかを宣言する。 マリ王国の人々にとって、自分の個人神は、自分だけの護衛兵、 医者、弁護士のような存在である」

講演後の質疑応答で、会場の人が次のような質問をした。 「一神教が発生したのは 紀元前600年頃のバビロン捕囚の時代である。 メソポタミアの個人神と一神教の発生とは何か関係があるのか」

この質問に対して、中田さんは次のように答えた。 「関係があるかどうかは分からない。 しかし、個人神に対するパーソナルな関係と一神教との距離は、 それほど遠いものではない」

メソポタミアにおける個人神に対する信仰が 一神教の源流なのではないかというのは、 なかなか興味深い仮説である。 竹下節子さん*1も、 アブラハムに啓示を与えた神について次のように述べている。

しかし、実は、アブラハムに啓示を与えた神は、 天地万物の唯一神といったようなものではなくて、 どう見ても「アブラハムの神」という個人の守護神、 あるいは氏神みたいなものに過ぎない。 「アブラハムの神」が「唯一神」になるためには、 その数百年後のモーセの時代に現れた 名のない抽象的な民族神の時代を経なくてはならなかった。*2

個人神に対する信仰というのは メソポタミアに固有の特殊な信仰である、 とは言えないのではないかと私は思う。 極論すれば、 神を対象とするあらゆる信仰は個人神を対象とする信仰である、 と言うこともできる。 なぜなら、神が存在する場所は人間の無意識の中であり、 神というのは幻灯機の種板のようなものだからである。 人間の外部に存在すると思われている神というのは、 人間の無意識の中に存在する種板としての神が、 人間の外部に幻像として投影されたものにすぎない。 したがって、神と人間との関係というのは、 基本的にはパーソナルなものなのである。

幻像としての神の投影は、 制度としての宗教の発生に先立つ行為である。 神を信仰の対象とする宗教というのは、複数の人間が、 自分たちが投影したそれぞれの神の幻像を 同一視することによって発生したものである。 発生する宗教は、同一視を極端に進めた場合には一神教となり、 同一視に何らかの限界を設定した場合には多神教となるのである。

*1 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/bamboolavo/
*2 竹下節子、『知の教科書・キリスト教』、 講談社選書メチエ、講談社、2002、p. 26。
存在論日記2008年8月/ 個人神
Last modified: Monday, 18 August 2008
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