存在論日記2008年9月/ 靖国神社は誰のものか

靖国神社は誰のものか

[一]序

このエントリーは、 「靖国に弥栄(いやさか)あれ」*1という 麻生太郎さんの文章(以下、 「麻生論文」と呼ぶことにする)についての考察である。

[二]麻生論文の論旨

麻生論文は、 靖国神社についての改革案を提示することを目的とするものである。 その改革案というのは、一言で言えば靖国神社の国営化である。 なぜ国営化が必要なのかということについて、麻生論文は、 国家のために命を投げ出した人間を国家が最高の栄誉をもって祀る という約束が国家と国民との間に存在するということが、 世界中どこででも認められている普遍的な原則だからである、 と述べている*2

ところで、靖国神社を国営化するというのは、 はたして可能なことなのだろうか。 少なくとも、 それを現状のままで国営化することは不可能である。 なぜなら、現状では、靖国神社を運営しているのは宗教法人であり、 そこで挙行されている祭式は 明らかに宗教性を帯びたものだからである。 したがって、その国営化は、「国及びその機関は、 宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」 と定めている日本国憲法第二十条第三項に抵触することになる。 そこで麻生論文は、 宗教法人としての靖国神社には任意解散してもらい、 国が設置法を制定し、 たとえば「国立追悼施設靖国社(招魂社)」 というような名称を持つ特殊法人を設立し、 祭式を非宗教的なものにしようではないか、 と提案している。

明治維新から太平洋戦争の敗戦までの時代において、 日本という国家が戦死者を顕彰するための施設が靖国神社であった、 ということは歴然たる事実である。 しかし、現時点においては、 靖国神社は日本という国家が戦死者を顕彰するための施設ではない。 また、 靖国神社がそのための施設とならなければならない という必然性は存在せず、 その代替施設においても、 その機能を果たすことは可能であると思われる。 しかし、麻生論文は、 靖国神社の代替施設を作ることは不可能であると主張している。 その理由として、麻生論文は、 靖国神社には戦死者の御霊が存在する、 というのが明治以来の日本人の集合的記憶であり、 その集合的記憶を代替施設へ移植することは不可能だからである、 と述べている。

[三]神社の所有者

靖国神社の国営化というのは、言い換えれば、 靖国神社を日本という国家の所有物にするということである。 すなわち、 現在の所有者からそれを接収するということである(ただし、 そのプロセスは強制によってではなく 靖国神社の自発性によって進められるものである、 と麻生論文は述べている)。 したがって、 靖国神社の国営化という問題を論ずる場合においては、 接収する側の立場に立って考えることのみならず、 接収される側の立場に立って考えることもまた必要である。 では、靖国神社の現在の所有者というのは、 いったい誰なのだろうか。 ただし、ここで考えなければならない「所有者」というのは、 法律上の所有者のことではなく、 靖国神社が 「それのために存在しているところの存在者」のことである。

国家神道が存在していた時代においては、靖国神社のみならず、 すべての神社は国家のために存在する施設だった。 しかし、太平洋戦争の敗戦に伴って国家神道は解体され、 その時点で、 すべての神社は本来の所有者に返還されたと考えることができる。 では、神社の本来の所有者とは誰なのか。 宮司なのか。 それとも氏子たちや崇敬者たちなのか。

神社が 「それのために存在しているところの存在者」というのは、 宮司でもなく、氏子たちでも崇敬者たちでもなく、 それぞれの神社に祀られている祭神である。 たとえば、出雲大社は大国主命のために存在する神社であり、 北野天満宮は菅原道真のために存在する神社である。 すべての神社は、敗戦の時点で、 それぞれの神社の祭神に返還されたのである。 この点については、 靖国神社も同じであると考えることができる。 したがって、靖国神社の国営化は、 英霊から靖国神社を接収するという意味を持つことになる。

[四]英霊の立場

靖国神社の現在の所有者は英霊である。 したがって、 靖国神社を国営化するという問題について考える場合においては、 現在の所有者である英霊の立場に立って考えることが不可欠である。 では、英霊の立場に立った場合、靖国神社の国営化は、 どのように考えなければならない問題なのだろうか。

国家神道の時代における靖国神社は、 その祭神のために存在する施設ではなく、 国家のために存在する施設だった。 そして、国家神道の解体に伴って、 それは祭神のために存在する施設となった。 靖国神社の国営化は、 それをふたたび国家のために存在する施設に戻すことである。 国家が靖国神社を使用する目的は、 麻生論文が指摘しているとおり、戦死者の顕彰である。 しかし、戦死者の顕彰は最終的な目的ではなく、 それもまた手段にすぎない。 国家が戦死者を顕彰する目的は、 死地に赴くことをも辞さないモチベーションを 若者たちに与えることである。

国家のために存在する施設としての靖国神社において、英霊は、 「国家がここで顕彰しているのはこのような神々ですよ」 という「見本」である。 したがって、ここで考えなければならないことは、英霊は果たして、 自分を見本として若者たちが国家に殉ずることを、 喜ばしいことであると思うのか、 それとも悲しむべきことであると思うのか、ということである。 おそらく、戦死した直後の英霊ならば、 それを喜ばしいこととみなしたに違いない。 なぜなら、彼らは、 それを喜ばしいことであると考えるように教育されたからである。 しかし、英霊に対しては、 考えるための時間として「永遠」が与えられている。 国家とは何か。 戦争とは何か。 教育とは何か。 宗教とは何か。 そのような問題を彼らは痛いほど考え続けているに違いない。

「英霊の立場に立って考える」というのは、けっして、 「彼らが生きた時代の枠組みの中で考える」という意味ではない。 それは、「時間をかけて深く考える」という意味である。 したがって、靖国神社の国営化という問題についても、 結論を急ぐことは許されない。 英霊と同様、永遠の相の下で、慌てず、騒がず、 じっくりと考え続けなければならない。

*1 http://www.aso-taro.jp/lecture/talk/060808.html
*2 この説明から、麻生さんは、 国家が戦死者を祀る目的として、 「慰霊」や「追悼」よりも「顕彰」を重視している、 ということを読み取ることができる。
存在論日記2008年9月/ 靖国神社は誰のものか
Last modified: Wednesday, 24 September 2008
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