存在論日記2008年11月/ キリスト教のローカライズ

キリスト教のローカライズ

「生命倫理―臨床医学の場から、キリスト者の視点に立って―」 という講演に関するメモ。

日時は2008年11月8日(土)14:30〜16:30、 場所はNCC宗教研究所、講師は加賀城惠一さん。

加賀城さんの講演は、 癌などの重い病気の患者に対する医療行為における QOL(Quality of Life)の重要性について強調した上で、 自分自身が医師として経験した数々の事例を紹介するものだった。

講演のレジュメの中には、 「眼差し:日本的感性(注視恐怖症)」 という記述が書かれていたのであるが、 講演はこの問題について触れないままで終わってしまった。 講演後の質疑応答の中で、 聴講者の一人がこの問題について質問をした。 加賀城さんは、その質問に対して次のように答えた。 「日本では、牧師の長男は信徒たちの視線にさらされ、 視線恐怖症になる。 隣人の眼差しに心が傷つくということである。 その結果として、牧師の長男は引き籠りや心身症になる確率が高い。 日本以外ではあまり例のないことである。 レジュメに書いておいたが、そのあとで、 「書かなければよかった」と思った」

「日本では、牧師の長男は信徒たちの視線にさらされ、 視線恐怖症になる」という現象は、 おそらく次のような原因で発生するものであろうと私は思う。

牧師というのは、 キリスト教プロテスタントの神に仕えることを 職業としている人間のことである。 キリスト教においては、聖性を持つ存在者は神のみであり、 被造物である人間が聖性を持つとみなされることはない。 この点については牧師といえども例外ではない。 しかし、日本人の意識においては、 人間を含めたさまざまな存在者が、神や仏ほどではないものの、 ある程度の聖性を持っているとみなされている。 そして、聖なる存在者に仕えている人間は、 そうではない人間よりも聖性が高い、 というのは多くの日本人が共有している認識である。 したがって、日本人のキリスト教徒のうちで、 日本人的な認識を保ち続けている人間は、牧師に対して、 その人を神聖視する視線を向けてしまうことになる。 そして、 その視線は 牧師の長男に対しても同様に向けられる(程度の差はあるとしても、 長男以外の子供も同様であろう)。 その結果として、牧師やその長男は、 被造物である人間としての自分の存在と、 信者たちから向けられる視線との間に、落差を感じることになる。 おそらく、 牧師はその落差に耐えることのできる精神を持っているのに対して、 牧師の長男は、 その落差によって精神の均衡を崩されてしまうのであろう*1。

キリスト教は普遍宗教の一つであると言われる。 しかし、いかなる宗教といえども、 あらゆる文化の中に そのままの形で溶け込むことができるわけではない。 宗教を、 それが発生した文化とは異なる文化の中に溶け込ませるためには、 ローカライズが必要である。 日本におけるキリスト教は、 それを日本の文化に溶け込ませるためのローカライズが 不十分であるにもかかわらず、 その状態のまま放置されているように思われる。 牧師の長男として生まれた場合には 引きこもりや心身症になる確率が高くなるという現象は、 日本におけるキリスト教のローカライズが不十分である という問題に対する警鐘なのではないだろうか。

*1 この推理は、 プロテスタント以外のキリスト教の宗派に関しても成立する。 したがって、この推理が正しいならば、 日本では神父の長男も視線恐怖症になるはずであるが、 はたしてどうなのだろうか。
存在論日記2008年11月/ キリスト教のローカライズ
Last modified: Friday, 21 November 2008
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