存在論日記2008年11月/ 純粋芸術と商業芸術

純粋芸術と商業芸術

「アキレスと亀」(監督・脚本・編集・挿入画:北野武) という映画を観た。

この映画の主人公である倉持真知寿(演じているのは、 少年期が吉岡澪皇さん、青年期が柳憂怜さん、 壮年期がビートたけしさん)は、幼い頃から画家を志し、 貧乏な生活を続けながらも、ひたすら絵を描き続ける。 彼は自分が描いた絵を何度も何度も 菊田という画商(演じているのは大森南朋さん)に見せるのだが、 そのたびに、こんな絵は売れないと冷たくあしらわれる。

この映画の面白いところは、 真知寿と菊田との間の相互作用である。 菊田は、真知寿が絵を持ち込むたびに、 この絵はなぜ売れないのかということを説明するのであるが、 真知寿はその説明を必要以上に素直に受け止めるため、 菊田から批判を受けるたびに、 芸術に向き合う姿勢が大きく変化してしまう。

芸術作品が持っている価値は、さまざまな価値の混合物である。 それらの価値のうちでもっとも重要なものを二つ挙げるとすれば、 芸術としての価値と商品としての価値であろう。 芸術としての価値を持つ作品を生む芸術は 「純粋芸術」(pure art)と呼ばれ、 商品としての価値を持つ作品を生む芸術は 「商業芸術」(commercial art)と呼ばれる。 しかし、個々の芸術作品を、 純粋芸術の産物と商業芸術の産物に截然と分類することはできない。 芸術としての価値のみを持つ芸術作品とか、 商品としての価値のみを持つ芸術作品というものは、 思考の中だけの存在である。 人々から芸術作品として認められるためには、 それらの両方を混合した価値を持っている必要がある。

芸術家というのは、意識的または無意識的に、自分の関心、 意欲、経済状態、知名度などのさまざまな条件にもとづいて、 純粋芸術と商業芸術とを混合する比率を決定していると思われる。 菊田と真知寿との相互作用が興味深いのは、 真知寿によるそれらの混合比率が、 彼自身の条件によって決定されるのではなく、 菊田の言葉によって大きく変動する、という点にある。

我々は、芸術家に対して潔さを求める傾向にある。 すなわち、 たとえ貧乏な生活を強いられようとも孤高の芸術を追求する人間や、 大衆が求めているものに敏感に反応して 時代の寵児となる人間というのが、 我々が持っている理想的な芸術家像である。 真知寿という人物は、そのような理想とは対極的な芸術家、 すなわち潔さに欠ける芸術家である。

北野さんは、 映画監督としての自分自身が どのようなタイプの芸術家であるかということを、 真知寿という人物によって表現しようとしたのではないだろうか。 もしもそうだとするならば、 北野さんが撮る映画は、 真知寿が描く絵画と同じであるということになる。 すなわち、 北野さんが撮る映画における純粋芸術と商業芸術の混合比率は、 彼がそれ以前に撮った映画に対する評価に応じて 大きく変動するということである。

存在論日記2008年11月/ 純粋芸術と商業芸術
Last modified: Thursday, 13 November 2008
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