存在論日記2008年12月/ ゲームとしての書道

ゲームとしての書道

武田双雲さん*1は、 きわめて高い評価を受けている書道家である。

しかし、 彼を高く評価しているのは書道界の外にいる一般人であり、 書道界による彼の評価は、それほど高いとは言えない。 たとえば、全日本書道連盟の正会員である荒井和行さん*2は、 武田さんが揮毫したNHKの大河ドラマ「天地人」の題字について、 次のような酷評を述べている。

飛白体が使えなくて、2文字に書く天の上。
力だけで書いているから線に伸びがなく、非常に弱い線質。
「人」に至っては、書体字典にもない文字。*3

一人の書道家に対する評価が 書道界の内側と外側とで大きく異なるというこの現象は、 いかなる原因で発生したものなのだろうか。 おそらく、その最大の原因は、一般人と書道界との間にある、 書道に対する認識のズレであろう。 すなわち、 一般人は書道を芸術として認識しているのに対して、 書道界はそれをゲームとして認識しているのである。 書道界による武田さんの評価が低い理由は、彼の書が、 ゲームとしての書道のルールから逸脱しているからである。

絵画と書道は、 二次元平面の上に何らかの形象を作成するという共通点を持つ。 したがって、一般人の目から見た場合、 絵画と書道はどちらも芸術の一ジャンルであり、 それらの間には本質的な差異が存在しないように見える。 しかし、書道界の認識における書道というのは、 絵画とは本質的に異なるものである。

絵画と、書道界の認識における書道との間に存在する差違は、 ダンスとフィギュアスケートとの間に存在する差異に似ている。 ダンスとフィギュアスケートは、 音楽に合わせて身体を動かすという共通点を持つにもかかわらず、 それらの間には本質的な差異が存在する。 ダンスが芸術の一ジャンルであるのに対して、 フィギュアスケートは、 一定のルールのもとで「上手さ」を競い合うゲームである。

書道界が書道を芸術ではなくゲームとして認識している という事態は、 さまざまなねじれ現象を生んでいる。 たとえば、 書道に関する大学の学科や専攻やコースのほとんどすべてが、 芸術学部ではなく 教育学部または文学部の中に存在するという現象は、 その一例である (了徳寺大学の芸術書道コース*4は芸術学部の中にあるが、 これはきわめて例外的な事例である)。 また、 二次元表現としての書の可能性*5を追究する書道家が出現しない という現象も、 同じ原因から生じたものであろう。

書道界は、 遥かな太古の時代から 書道をゲームとして認識していたわけではない。 おそらく、そのような認識が発生したのは明治以降であろう。 それ以前の書道界は、 書道を日本画と同列のものとして認識していたと思われる。 しかし、明治以降に日本画界と書道界のそれぞれが志向した道は、 大きく方向が異なる。 日本画界は芸術を志向し、 書道界はゲームを志向したのである。 したがって、日本画に関する大学の学科や専攻やコースは、 そのほとんどすべてが芸術系の学部の中に存在する。

おそらく、書道はゲームであるという書道界の認識は、 永遠には続かないであろう。 大学の芸術系の学部の中に書道専攻が設置されたり、 二次元表現としての書の可能性を 書道家が追究したりする時代が来るのは、 それほど遠い未来ではないと思われる。 武田双雲さんという書道家の出現は、 そのような新しい時代が到来する予兆である。

*1 http://www.souun.net/
*2 http://homepage2.nifty.com/syo-world/
*3 http://pub.ne.jp/Indianinkworld/?entry_id=1690333
*4 http://www.ryotokuji-u.ac.jp/p2_art/p04.html
*5 書が二次元表現でなければならないという考え自体、 単なる固定観念かもしれない。 三次元的な素材を使って書を制作することも 可能なのではないだろうか。
存在論日記2008年12月/ ゲームとしての書道
Last modified: Monday, 15 December 2008
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