存在論日記2009年/ 補助線としての阿弥陀如来

補助線としての阿弥陀如来

沖野頼信さんの法話に関するメモ。

場所は真宗本廟(東本願寺)阿弥陀堂、 日時は2009年7月25日(土)7:51〜8:03。

沖野さんは次のように語った。 「阿弥陀さんは、 あらゆる生き物の立場に立ってものごとを見る方である。 あらゆる生き物という立場から見ると、この世は浄土である。 阿弥陀さんの知恵を疑っている人は、自分で浄土を作ろうとする。 この世を改良しなければならないと考える。 そうすると、ほかの考え方の人と衝突し、争いが起きる。 それが、「地獄に堕ちている」という状態である。 「救われる」というのは、 「そのままでいい」と考えることである」

私は、以前、 「補助線としての神」*1というエントリーの中で、 トマス・アクィナスの「神学大全」について次のように述べた。

私は、「神学大全」においてトマスが語りたかったことは、 人間をめぐる世界の秩序であって、それは、 たとえ神を消去したとしても そのまま成立し得るものなのではないかと思う。 つまり、彼の神学における神というのは、 幾何学の定理を証明する際に使われる 補助線のようなものなのではないかと考えているわけである。

沖野さんの法話についても、これと同じことが言える。 すなわち、 「あらゆる生き物の立場に立って ものごとを見る者が存在するならば、 彼の目にはこの世はどのように映るだろうか」 という思考実験のための補助線として、 阿弥陀如来の存在が仮定されているのである。

沖野さんやトマスの議論は、一般化すれば、 超越的な存在者というものの存在を補助線として仮定した上で、 「世界とはいかなるものであるか」 ということを考えることによって、 何らかの宗教的な世界観を導き出そうとするものである。 しかし、補助線としての超越的な存在者は、 その必要性がなくなった時点で、 すみやかに消去されることが望ましい。 なぜなら、超越的な存在者を消去することなく、 それの一人歩きを許してしまうことが、 宗教が人間にとって有害なものとなる最大の原因だからである。

しかし、 補助線として使われた超越的な存在者を消去することは、 きわめて困難である。 そこで、たいていの宗教においては、 超越的な存在者を隠蔽するという次善の策が採用されている。 たとえば、カトリックや浄土真宗においては、 神学あるいは教学の名のもとに、 それらの宗教を生み出す過程で使用された補助線の周囲に 言葉の壁を築くことによって、 それが人々の視界に入らないように努めている。 このようにして、多くの宗教においては、時代が下るにつれて、 人間によって築かれた構築物が障壁となって、 超越的な存在者がしだいに見えにくくなる傾向にある。

「原理主義」と呼ばれる運動は、 人間による構築物を取り除くことによって、 再び人々の目の前に補助線を置こうとするものである。 これは、きわめて危険な運動である。 超越的な存在者は仮説の中にしか存在しないものであるが、 それが人々の目の前に置かれると、 それは一人歩きを始め、実在者の地位を得る。 そして人々は、 自分たちの正義を実現するための不道徳な行為を 正当化するために、 超越的な存在者の名前を利用するようになる。

超越的な存在者は、 仮説という論理的な世界の中にのみ存在する存在者である。 それが現実的な世界の中に存在するという主張に対しては、 警戒が必要である。

*1 http://sonzai.org/2008/03/hojosen.htm
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Last modified: Monday, 14 September 2009
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