存在論日記2009年/ 宗教多様性の保全

宗教多様性の保全

宗教は人間によって使用される道具の一つである。 したがって、他の道具と同様、 その中に欠陥が含まれている場合、 その欠陥は速やかに除去されなければならない。 そして、明らかに欠陥が含まれているにもかかわらず、 その宗教の内部の人間たちがそれを放置している場合、 外部の人間はそれを批判する必要がある。

何らかの宗教の外部にいる人間による、 その宗教に対する批判は、 そのすべてに意味があるとは限らない。 道具としての欠陥についての批判には意味があるが、 欠陥とは言いがたいものについての批判は無意味である。

佐藤哲朗さんは、 「仏陀は再誕しない」*1というブログエントリーの中で、 幸福の科学が製作した 「仏陀再誕」というプロパガンダ映画について、 次のように述べている。

「仏陀(ブッダ)が再誕する」ということはありえない話です。

仏陀は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・天(欲天+梵天)という 輪廻の世界から「解脱(げだつ)」を果たした方です。

ですので、絶対に「再誕」などしません。 この世界が何次元構造になっていようが、 その一切から完全に解脱している(のりこえている)から 仏陀なのです。

佐藤さんによるこの批判は、はたして意味のあるものだろうか。 私は、この批判は意味のないものであると思う。 なぜなら、この批判は、 「仏陀が再誕する」という教義に含まれている 道具としての欠陥を指摘したものではないからである。

「仏陀が再誕する」という教義に対する佐藤さんの批判は、 自分が所属している宗派の教義を土俵にして、 それとは異なる宗派の教義の間違いを指摘するものである。 これは、数学で言えば、 ユークリッド幾何学を土俵にして 非ユークリッド幾何学の間違いを指摘するのと同じことである。

数学上の個々の理論は、矛盾のない命題から構成される。 しかし、ある理論において真である命題が、 別の理論においても真であるとは限らない。 したがって、ある理論における命題の真偽を、 別の理論における議論に応用することはできない。 個々の宗教の教義、そして個々の宗派の教義も、 数学上の個々の理論と同様である。

仏教という宗教の教義を土俵とするならば、 佐藤さんが指摘するとおり、「仏陀が再誕する」は偽であろう。 そして、幸福の科学という宗教の教義を土俵とするならば、 「仏陀再誕」が描いているとおり、 「仏陀が再誕する」は真であろう。 しかし、一方を土俵にして他方を批判することは無意味である。

ある宗教において真である命題が 別の宗教においては偽であるというのは、 批判すべきことではなく、むしろ歓迎すべきことである。 なぜなら、そのような相違が宗教の多様性を生むからである。 一つの文化圏に含まれる宗教は、多様であればあるほど、 その文化圏に住む個々の人間が宗教に求めるものの多様性を、 より容易にカバーすることができる。 もしも単一の宗教しか含まれない文化圏が存在するとするならば、 その文化圏においては、 自分が求めるものを宗教の中に見出すことのできない人間が 大量に出現することになるであろう。

「仏陀は再誕しない」という命題は、 すべての人間にとって望ましいものであるとは言えない。 特に、日本のように、 輪廻というものがそれほど切実性を持たない文化圏においては、 「仏陀は再誕しない」という命題よりも 「仏陀が再誕する」という命題のほうが望ましいと考える人間は、 少なからず存在すると思われる。 したがって、宗教多様性の保全という観点から見た場合、 「仏陀が再誕する」という命題を真とみなす宗教は、 日本という文化圏において必要な存在である、 と言わなければならない。

*1 http://d.hatena.ne.jp/ajita/20090909/p1
存在論日記2009年/ 宗教多様性の保全
Last modified: Thursday, 26 November 2009
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