存在論日記2009年/ エホバの証人における教義の変更について

エホバの証人における教義の変更について

鰤端末さんが書いた 「エホバの証人と輸血の話」*1というブログエントリーの中に、 次のような一節がある。

というわけでわたしの情報はリアルタイムのものではないし、 エホバの証人は 教義を予告なく変更することでも悪名高いので(後述)、 以下に書く情報は細部では異なっているかもしれない。

私は、この一節の中で使われている「悪名高い」という表現に、 何か引っかかるものを感じた。 教義を変更する宗教は、なぜ「悪名高い」のだろうか。 この表現が使われている背景には、 宗教の教義というものは、 ひとたび定められたのちは何があろうとも変更されるべきではない、 という規範意識が存在している。 私が引っかかりを感じた理由は、 そのような規範意識は望ましいものではない、 という認識を私が持っているからではないかと思われる。

ところで、鰤端末さんは、 エホバの証人という名前は 誰にとっての「悪名」であると考えているのだろうか。 言い換えれば、鰤端末さんが想定している、 教義というものは変更されるべきではない という規範意識の所有者は、 いったい誰なのだろうか。 エホウォッチャー*2たちだろうか。 いや、そうではあるまい。 エホウォッチャーたちは、エホバの証人が教義を変更することを、 楽しみこそすれ、迷惑に思うことはないであろう。 教義の変更を悪と見る規範意識を持っているのは、おそらく、 エホバの証人の一般信者たちであろう。 なぜなら、 特定の宗教の教義を刷り込まれた人間にとって、 その教義は絶対的に正しいものだからである。 教団幹部による教義の変更は、 それがどれほど微細なものであろうとも、 一般信者たちの心に痛みを与える。

エホバの証人に限らず、何らかの宗教の信者たちは、 教義の変更は自分たちの心に痛みを与えるものであり、 したがって教義というものは変更されるべきではない、 という規範意識を持っているように思われる。 しかし、だからと言って、宗教指導者は、 自分たちの教義を変更することに消極的であってはならない。 むしろ逆に、 教義というものは必要に応じて変更されるべきものである。 なぜなら、宗教というものは、 人間を幸福にするための道具の一つだからである。

あらゆる道具はプロトタイプである。 言い換えれば、 改良の余地をまったく持たない道具というものは存在しない。 宗教という道具も、道具である以上、常に改良の余地を持つ。 したがって、宗教指導者は常に、 自分たちの教義は 信者たちの幸福の増進にどれくらい役立っているのか、 ということを検証し、その性能を少しでも増大させるために、 教義を改良する努力を怠ってはならない。 教義の変更は一般信者たちの心に痛みを与えるが、 それは一時的なものであり、長い目で見れば、 教義の改良は彼らの幸福度を向上させるはずである。

しかし、教義の変更があまりにも急激すぎると、 信者の離反や教団の分裂を招くことになりかねない。 たとえば、キリスト教がユダヤ教から分離した原因は、 イエスによるユダヤ教の教義の変更が あまりにも急激すぎたために、 信者の多くが新しい教義を拒絶したことにある。 鰤端末さんは、 「エホバの証人は教義を予告なく変更することでも悪名高い」 と述べているが、 エホバの証人がいまだに分裂していないことから考えると、 彼らの教義の変更は、分裂の危機を招くことのないように、 故意に時間をかけて進められているのではないかと思われる。

宗教というものは人間を幸福にするための道具の一つである、 という観点から見た場合、残念ながらエホバの証人は、 きわめて重大な欠陥を持つ道具であると言わざるを得ない*3。 したがって、この道具の改良には一刻の猶予も許されない。 教団幹部は教義の改良を早急に進めるべきである。 たとえ、 急激な教義の変更が信者の離反や教団の分裂を招いたとしても、 それは、彼らが支払わなければならない代償である。

*1 http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090316/p1
*2 「エホバの証人ウォッチャー」の略。 エホバの証人の動向を外部から観察している人間のこと。
*3 http://www11.atwiki.jp/anti-religion/pages/20.html
存在論日記2009年/ エホバの証人における教義の変更について
Last modified: Saturday, 18 April 2009
Copyright (C) 2009 Daikoku Manabu