存在論日記2009年/ 濁世の目足

濁世の目足

岩佐幾代さんの法話に関するメモ。

場所は真宗本廟(東本願寺)阿弥陀堂、 日時は2009年1月24日(土)7:37〜7:55。

岩佐さんは次のように語った。 「念仏は濁世の目足(じょくせのもくそく)である。 世の中を濁世にしているのは私たちの煩悩であり、 念仏は、私たちの目となり足となって、 煩悩を増幅させている自分たちのあり方を見直させてくれる」

煩悩の増幅ということについて、岩佐さんは、 自動車という道具を例に挙げて次のように説明した。 「自動車というのは便利な道具である。 それがなければ一日仕事になるような用事も、 自動車のお蔭で30分で済ませることができる。 しかし、自動車を持つことによって、 それを持っていない場合よりも腹の立つことが多くなる」

人類の文明は、 我々に「便利さ」を提供するさまざまな道具を生み出した。 「便利さ」は我々にとって価値のあるものであり、 我々は、対価を支払ってでも、 それを享受するために道具を使用する。 これは、経済学的には自然な現象である。 しかし、仏教的には、 たとえ「便利さ」を放棄することになるとしても、 使用すべきではない道具というものも存在する。 それは、煩悩を極度に増幅させる道具である。 人間が使う道具の中には、 煩悩を増幅させるという副作用が強いものもあれば弱いものもある。 如来の智恵は、どのような道具は副作用が強く、 どのような道具はそれが弱いのかということを、 濁世の目足となって我々に教えてくれる。

エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー (Ernst Friedrich Schumacher)は、 『スモール・イズ・ビューティフル』(Small Is Beautiful: A study of Economics as if People Mattered)の 第1部第4章において、 現代経済学に対するアンチテーゼとして、 「仏教経済学」(Buddhist economics)という学問を提唱している。

モノの所有と消費とは、目的を達成するための手段である。 仏教経済学は、 一定の目的をいかにして最小限の手段で達成するかについて、 組織的に研究するものである。

これに反して現代経済学は、 消費が経済活動の唯一の目的であると考えて、 土地・労働・資本といった生産要素をその手段と見る。 つまり、 仏教経済学が適正規模の消費で 人間としての満足を極大化しようとするのに対して、 現代経済学者は、 適正規模の生産努力で消費を極大化しようとする。*1

文明化された社会に住んでいる人間たちの大多数は、 「人間の幸福は所有と消費の量に比例する」 という幸福観を持っている。 現代経済学は、 そのような社会における経済現象を 正しく分析することができるように構築されている。 しかし、大多数の人間たちが、 煩悩を増幅させる所有と消費を必要最小限に押さえ、 所有でも消費でもないものに幸福を見出すような社会に対しては、 現代経済学よりも仏教経済学のほうが、 その社会における経済現象をより正しく分析することができる。

煩悩を増幅させないことが幸福への道であるという幸福観は、 仏教徒のみならず、あらゆる人間が共有すべきものである。

*1 E・F・シューマッハー 『スモール・イズ・ビューティフル―人間中心の経済学―』 小島慶三・酒井懋訳、講談社学術文庫、講談社、1986、p. 75。
存在論日記2009年/ 濁世の目足
Last modified: Friday, 13 February 2009
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