存在論日記2009年/ 遥拝所としての神社

遥拝所としての神社

先日、MSN産経ニュースに、 「萌え系絵馬に英霊戸惑う!?」*1という記事が載っていた。

記事の内容は、次のようなものである。 「最近、宮城県護国神社の鳥居脇に置かれている絵馬納所に、 若い女性たちによって、 アクションゲーム「戦国BASARA」のキャラクターである 伊達政宗のイラストが描かれた多数の絵馬が奉納されている。 同神社は、仙台城跡に建ってはいるものの、祭神は政宗ではなく、 宮城県出身の英霊である。 同神社の裏手には政宗を祀る浦安宮があるが、 そちらを訪れる参拝客はほとんどいない」

確かに、英霊の立場で考えると、 自分たちが祀られている護国神社に、 伊達政宗のイラストが描かれた 多数の絵馬が奉納されているというのは、 戸惑いを覚えざるを得ない現象である。 しかし、英霊ではない普通の人間という立場で考えると、 この現象は、 「日本人にとって神社とはいかなる場所であるか」 という問題を解明する上で、 重要な鍵を示唆しているように思われる。

日本には無数の神社が存在しているが、 それらのうちの大多数は、 そこに祀られているのがいかなる神なのかということが 多くの人々によって認知されている、 とは言い難い神社である。 護国神社は、 その祭神が英霊であるということが 多くの人々によって認知されているという点で、 少数派に属する。 もしも、「戦国BASARA」のファンたちが絵馬を奉納している神社が、 そこに祀られているのがいかなる神なのかということが それほどには認知されていない神社だったとすれば、 MSN産経ニュースも、 それを記事にはしなかったのではないかと思われる。

神道において崇拝の対象となっている存在者は、 無数の神々である。 平均的な日本人にとって、それらの神々の多くは、 その名前を聞いたとしても、 それがどのような神なのかという具体的なイメージを 思い浮かべることができない存在者である。 ところが、

私はこれから神社に参拝しようとしている。 しかし、その神社に祀られている神について、私は何も知らない。 このままでは駄目だ。 参拝する前にしっかり予習をしておかねばならない。

というように考える人々は、はたして、 日本人全体に対してどれぐらいの比率を占めるだろうか。 逆に、祭神について何も知らないけれども、 いかなる疑問も感じることなく参拝している、 という人々のほうが高い比率を占めるのではないだろうか。

祭神について何も知らないまま神社に参拝する人々は、 いったい何に対して祈りを捧げているのだろうか。 いかなる存在者であるかということを何も知らない神に対して 祈りを捧げているのだろうか。 あくまで私の推測であるが、彼らが祈りを捧げる対象は、 その神社の祭神ではなく、自分にとっての神なのではないだろうか。 すなわち、 彼らにとって神社というのは、そこに祀られている神ではなく、 そのさらに後方に存在している神に祈りを捧げるための、 遥拝所のような施設なのではないだろうか。

では、神社を遥拝所として利用している人々が、 それに対してそこで祈りを捧げる、 「自分にとっての神」というのは、 いかなる存在者なのだろうか。 それは、彼らがそれまでに吸収してきた知識によって形成された、 「神」という言葉が意味している概念を個物化した存在者である*2。 それが神道の神に近い存在者なのか、 キリスト教の神に近い存在者なのか、 それともそれら以外の宗教の神に近い存在者なのかというのは、 それぞれの人ごとに違っているであろう。

現在、日本の若者たちの多くは、結婚に際して、 キリスト教の神父または牧師の司式によって 婚姻の秘蹟を受けることを望む傾向にある。 その理由はおそらく、彼らが持っている神という概念が、 神道よりもむしろキリスト教についての知識によって 形成されているからではないかと思われる。

日本の若者たちの多くは、 自分がクリスチャンであるということを 自覚していないクリスチャンなのではないだろうか。 そして、彼らにとって神社というのは、 キリスト教の神に対する祈りを捧げるための 遥拝所なのではないだろうか。

*1 http://sankei.jp.msn.com/region/tohoku/miyagi/090521/myg0905211825004-n1.htm
*2 ここで、 「概念を個物化した存在者」と私が呼んでいるものは、 「クラスから生成されたインスタンス」ではなく、 「個物として扱われる概念そのもの」である。
存在論日記2009年/ 遥拝所としての神社
Last modified: Friday, 17 July 2009
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